カップの中でここあちゃんは
次の日も、ここあちゃんは目を覚ましました。昨日よりも足りない気がします。ここあちゃんは不思議でなりません。勘違いでなければ、目を覚ました時点からすこし寒いのです。いままで、日によってあつあつなことはありましたが、ぬるいだなんてことは一度もありませんでした。ここあちゃんは体を起こすのがおっくうでした。
「寒い……」
おじさんは、今夜も古典の参考書を積み上げ、教科書を広げて書きものにふけっています。カップの中をのぞき見ることもありません。
「おじさん……」
ここあちゃんは目を閉じて、おじさんを小さく何度も呼びました。そのうちここあちゃんは、自分はおじさんになにを求めて呼んでいるのか? なにも通じはしないのに?……そう思い、気づきました。
「わかってないのは、おじさんのほうね」
おじさんは、カップの中のここあちゃんのことなんて知りもしません。見えもしなければ、ココアの中にこんなものが存在するだなんて思いもよらないでしょう。
ここあちゃんのことなんかより、ここあちゃんの住みかであるおいしいココアのほうが、ココアなんかよりお気に入りのカップのほうが、カップなんかより自分の担当科目である古典の方が、そして古典よりも、愛する娘のことが、おじさんは大切なのです。
「今夜のココアはおじさんのココアじゃない」
ここあちゃんは、謎が解けたすがすがしさと、見抜いてしまった現実を拒みきれないむなしさで胸がいっぱいでした。今夜のココアは、クリープスプーン一杯分足りないココアです。ぬるいミルクで溶いたココアです。ここあちゃんの居心地の悪いココアです。なのにおじさんは、いつものココアと変わらず飲んでくれます。
今夜のココアは、娘さんがおじさんのためにつくったココアでした。
ここあちゃんが娘さんについて知っていることといえば、おじさんの学校の生徒であること。家のお手伝いをよくすること。このカップを洗ってくれたこともありました。それから、おばさんが亡くなってから、おじさんとあまり話をしなくなったことでした。
「おじさん、もうわたしがいなくなっても平気?」
おじさんとここあちゃんのお気に入りのカップは、落ちついた青い色をしています。おばさんの使っていた赤いカップは、今は娘さんが持っているようです。
「おじさんもうさみしくない?」
娘さんが赤いカップを使っているのかどうか、ここあちゃんにはわかりません。でも、赤いカップにココアをつくったとして、そちらで自分が目を覚ますとは思えません。
「おじさんのココア大好きだったよ」
ここあちゃんは、冷えていくカップの底で体を丸めて、おじさんの顔を想像してみました。ここあちゃんのまぶたの裏のおじさんは、やさしい眼鏡の微笑み顔です。ここあちゃんは、自分はもう目を覚まさないだろうと思いました。そして、はじめて眠りにつく感覚を覚えました。
次の日、あつあつのミルクが注がれた赤いカップの中で、みるくちゃんは目を覚ましました。
作品名:カップの中でここあちゃんは 作家名:ごはんの時間だよ