触れたくなったんだ
「そう言えば…」
多分、無意識だろうけれど。
僅かに体重をこちらに預けながら、静かに口を開いた朝陽さんへと顔を向ける。
すると言い難そうにしながら俺を一瞥して、少しだけ顔を俯けた。
そしてそのまま口を噤んでしまった。
いつもそうだ、この人は。
大概の事には無関心で冷静なのに、自身や俺の事に関しては臆病なくらい慎重で。
殊、人の機微に関しては。
こうして言い淀む時は、その九割程がそれに触れる時。
触れた肩から伝わってしまわないように。
小さく小さく、溜め息を吐いた。
「そう言えば…なに?」
「いや…大した事じゃない。ただ…」
「ん?」
再び口を噤む彼の手に自分のそれを重ねる。
そうする事で、促すのだ。
いつも。
「……、…なんで…俺に構うようになったのかと思って。…お前は…、その…俺とは真逆だし、それに俺みたいな奴とは他に関わりないだろ。だから、ちょっと気になって…」
「なんだ、そんな事か」
「…悪かったな、こんな事で」
「ああ、いや、別に悪くはないよ。でも、なんで今更そんな事聞くのかなって」
彼とこうして付き合うようになってから、早半年。
知り合って付き合うまでは、二ヶ月程だっただろうか。
その前から、俺は彼を知っていたけれど。
「誰も俺には近付いたりしなかった。それなのに、なんで好き好んで声なんか掛けたんだろうって、ずっと思ってたんだ。お前とは学年も違うし、それまでは特に関わりなんかなかったから」
「ああ…まあ、そうなんだけど」
校内一の不良だと言われ、割と真面目である学校の生徒達は、彼の周囲には寄り付きはしなかった。
その中で、俺も接点がなかった部類に入っていた。
自分が特別真面目な方だとは思わないし、別に不良というわけでもない。
別段、不良に対して偏見がある訳でもなかったけれど。
ただ本当に、近くに行く理由がなかった。
重ね合わせた手を親指で撫でながら、俺は彼を知った当時の事を思い出した。
「そうだね、いいよ。教えてあげる。俺だけの秘密にしようと思ってたんだけどね」
朝陽さんに頼まれたら、断れないよ。
そう言って、脳裏に浮かべた頃の事を語っていった。
夕暮れの公園の片隅。
その場所に、彼は居た。
何をするでもなく、ただただ座ってどこかを見ていた。
ひっそりと佇む姿に、その存在を不確かに感じた。
確かに目の前に居るのに、動いたら、声をかけたら、ふわりとどこかに消えてしまいそうで。
朱の光に照らされながら、どこか遠くでも見ているかのようなその瞳に、遠目からでも惹かれた。
そんな彼が校内の悪い噂で有名な不良であると知ったのは、翌日の事だった。
校内で見る彼は、確かに人を寄せ付けない雰囲気を放っていた。
目付きはギラリと鋭かったし、喧嘩の技術も高かったのだろう、制服に返り血らしきものを付着させていた事もあった。
けれど、公園で見た彼の姿が忘れられなかった。
人を寄せ付けない雰囲気はあったけれど、学内で見せるそれとは違って…なんと言うか、脆く、儚い。
そんなイメージだったのだ、その時の彼は。
不安定で、脆くて、守ってあげたいと、そう思わせる何かがあった。
そして、俺は行動に出る事にした。
友人には馬鹿だと言われた。
でも、応援もしてくれた。
そのおかげで、俺は晴れてこの人と付き合うようになれたのだ。
思い出した事の、必要な部分だけを掻い摘んで、必要最低限の言葉で伝える。
知り合う前から見られていた事を、朝陽さんはやはり気付いていなかったようだ。
眉間に細かい皺が寄る。
照れている時の、照れ隠しだ。
けれど、隠せていない。
僅かに赤みの増した頬までは。
「公園で初めて朝陽さんを見た時、近くに行きたくて、でも一歩だって動けなかった」
「…どうして」
「どうしてかな?」
はぐらかすように答えると、今度ははっきりと睨まれてしまった。
「ひとつくらい、教えろ。俺は、お前に色んな事を知られてばっかりなんだ」
そんな、言葉付きで。
本当に。
敵わない、この人には。
言葉密かに、伝わってしまった。
俺を信頼していると。
鋭く見つめる瞳の奥から。
実際、聞けば話してくれない事なんて、今となっては皆無と近いだろう。
それならば、もっと信じてくれたっていいのに。
俺はあなたを捨てないから、傷付けないから。
言葉にせずとも、伝わってくれればいい。
温もりを繋いだ、この手から。
「…もう。わかったよ、言うってば」
深く溜め息を吐いて、手を離した。
代わりに顔を向かい合わせて、その頬を両手で包む。
鼻先が触れ合いそうな、吐息さえ交わる距離で、視線が絡む。
逸らさせはしない。
「……一目惚れだったんだよ、きっと」
「…はあ?」
「一目惚れ。何回も言わせるなってば。恥ずかしいんだから、こういうの」
「…よく言う。お前、いつも煩いくらいじゃないか。俺のことが、」
「好きだよ。何回言っても足りないくらい、朝陽さんのことが好き」
「……、…それだけ言っておいて、何が今更恥ずかしいだ」
きっと、この人はわかっていない。
俺が、どれだけ焦がれたか。
どれだけこの人に惹かれ、魅せられて、惚れているのか。
鋭く光った瞳の奥に隠れたものが、虚勢を張る事でしか隠せなかった不安の色だと知ってからは、もっと。
その想いが、今でも日増しに大きくなっていく事を。
ひとつ、触れるだけのキスをする。
「恥ずかしいよ。だって、恋愛は先に惚れた方が負けだって言うじゃん」
「お前、バカだろ。…いや、知ってるけど」
「そうだよ。バカだよ、俺は」
でも、知らなくていい。
この人がどれだけ大事かなんて、俺だけがわかっていればいいだけのこと。
どうせ言葉にしたって伝えきれない。
「親バカならぬ、朝陽バカ?」
「っ!…このっ、……馬鹿野朗!」
「だから、バカだって言ってるじゃん、俺」
顔を真っ赤にして、口をパクパクさせて。
それが羞恥だけからくるものではないとわかっているけど、気付かない振りをして、包み込んだ頬を指先だけで撫でる。
「大好きだよ、朝陽さん」
「煩い」
「知ってる。でも好きなもんは好きだもん」
「黙れ!」
「無理。朝陽さん、好き」
「っ…こ、のっ…!」
「好きだよ」
最後は囁くように小さく伝えた。
途端に勢いの萎む様がまた愛らしい。
どれだけ触れても、見つめても、足りない。
触れれば触れるだけ、見つめれば見つめるだけ、愛しさが溢れてくる。
俯けた視線を戻させずに、飽きる事なく見つめていた。
「あー…とりあえず、そういう事は自分らの部屋でやってくれんか」
その声が聞こえるまでは。
ここがリビングのソファだと思い出してからの朝陽さんの行動は早かった。
後ろ手で掴んだクッションで、思い切り手首のスナップを利かせて俺の顔面を殴り(素手じゃなかったのは愛情だと思いたい)、何の言葉も発する事なく足早にリビングを出て行った。
階段を上る音と勢いよく扉を閉める音が聞こえたから、多分部屋へ戻ってしまったのだろう。
鍵が掛けられていない事を切に願うしかない。
立ち去る寸前の朝陽さんの表情が可愛かったのは置いといて、折角の雰囲気をぶち壊してくれた元凶へと視線を向ける。