例え話は嫌いだよ
「例えばさ、俺が突然消えてしまったら、凛は哀しまないと思うんだ」
唐突に、洗い物をしていた手を止めて。
達樹はまた変な事を言い出した。
彼はいつも何かが変で、そういう時はいつも唐突に始まるのだけれど。
「……何をまた突然」
黙々と読み進めていた本から視線を外し、普段は使わない眼鏡を外して達樹を見る。
思わず盛大な溜め息が出た。
「俺はさ、凛がいなきゃ生きていけないと思うんだよ。でも凛は強いから、俺がいなくても生きていけるんだろうなって。多分、俺がいなくなっても哀しまないんだろうなって思うんだよ」
「あほか。そういう事は僕の前からいなくなれるようになってから言え」
「無理だよ。俺は凛がいなきゃ生きていけないもん」
「無理なら最初から言うな。あと水出しっぱなしにするな、勿体無い」
「……すみません」
辛辣な言葉でバッサリと切り捨て、視線を本に戻す。
非生産的な会話で時間を無駄にするつもりはない。
それでも、今日はこれでは終わらないだろうと薄々感じながら、こっそりともう一度溜め息を吐いた。
暫くは、流れる水の音、硝子や陶器の食器が立てる音だけが空間を占める。
それさえ止めば、あとは本のページを捲る紙の音と、秒針が刻む時の音と、達樹が戻ってくる音と。
あくまでも我関せずの姿勢を崩さずに、視線は本に落としたまま様子を窺う。
その状態が続いた時間は、そう長くはなかった。
「でもさ、凛。やっぱり、俺の方が凛を好きだよ」
内心、やっぱり来たかと思いつつ、冷めた視線を向けた。
「何がやっぱりだ。大体、お前の言う事はいつも唐突過ぎる」
「うん、でも、凛は俺がいなくても生きていけるだろう?」
達樹のこういう考えは、はっきり言って好きではない。
どちらの気持ちが大きいだとか、もし誰かが消えてしまったらだとか、そういった類のもしもの話は意味を為さない。
そんなこと、実際になってみなければわからないのだし、訪れるかどうかもわからない先の事を案じて不安になるなど、無駄でしかない。
「まあ、そうだね。僕は達樹がいなくなっても、なんら変わらず生きていくと思うよ」
正直なところ、達樹との交際が終わった後のことなんて、どうだっていいのだ。
もし仮に、不慮の事故で達樹が死んでしまったとしても、それで自分まで死ぬような愚かな人間でない事は確かだし。
その事実をどう思うかは別として、今そんなことを考える事は、無駄以外の何物でもないと僕は考える。
達樹は酷く不安定だ。
普段はへらへらとして掴み所のない性格をしているが、ふとした瞬間、こうした空気を纏う。
曖昧で、ともすれば狂気とも取れる程の、紙一重の雰囲気。
寧ろ、こちらの方が達樹の本来の姿なのではないだろうか。
明るく、馬鹿な達樹の姿は、この表情を隠す為に生み出されたように見えて仕方ない。
日常的に明るい表情ばかり見せる者ほど、その影に色々な物を隠している事は珍しい事ではない。
時折暗い表情を見せるのではなく、常に明るく取り繕っている。
こうして時折見せる達樹の姿が、それに該当しないとは言えないだろう。
「そうだよな。凛は、強いから。多分、俺なんかいなくても平気だ」
「お褒めに与り光栄だね」
「例えばここで俺が別れようって言っても、凛は縋り付いてもくれない」
「……そうだね」
達樹の予測に間違いはない。
誰かに縋って情けない姿を見せるくらいなら、黙ってその結果を受け入れるだろう。
達樹と別れたいわけではない、ただ、それが僕の性格だ。
小さなテーブルを挟んで向かいに座る達樹の表情は、俯いていて今は見えない。
卓上に乗せられた手が、強く握り締められる。
震える腕は力が入りすぎたせいか、それとも何かを堪えているのだろうか。
影を落とす顔から、獰猛な光を湛えた瞳がチラリと見えた気がした。
「でも俺は、凛みたいに強くなれないんだ。凛がいなきゃ、俺は呼吸さえ出来ない。凛のいない世界なんて、俺には価値がない。凛が消えてしまうなら、その前に…」
不意に腕を伸ばされる。
テーブルの上に身を乗り出した達樹の手は、微動だにしない僕の首を確実に捉えていたが、逃げはしない。
思いの他強く掴まれた衝撃で本を取り落とす。
一瞬だけ息が詰まって、咽そうになるのを堪えた。
「こうして、俺だけのものにしてしまった方が、きっといい」
多分、達樹は人一倍臆病なのだろうと思う。
失う事を怖れるくせに、突き放そうとする。
逃げられる前に、逃がしてしまった方がいいと。
失うくらいなら、奪ってしまえと。
その先に残るものが虚しさでしかないと、本人もわかっているだろうに。
思い通りにならない積み木を、自らの手で壊す子供のように、酷く我が儘で、愚かで、臆病だ。
血流が塞き止められて、酸素不足に陥った頭が痺れ始める。
気道を締め付ける指が、喉元に食い込んだ。
「ッ…ぅ、……っ…」
「毎日考える。朝、凛より先に起きた時。仕事に行く前。帰ってきても、風呂の中でも、抱いてる時も。凛が先に寝た夜も。考えて考えて考えて、眠れなくなる。俺は弱いから、凛がどっかいったら耐えられない。いずれ失うなら、そうなる前に…って、俺、間違ってると思う?凛は正しいから、きっと間違ってるって言うよな。でも、駄目かな、こういうの。嫌かな。凛は、やっぱり」
不快な耳鳴りが、急速に大きくなっていく。
邪魔されて達樹の言葉の大半が聞き取れない。
指先が痺れてきた頃、首を絞める達樹の手の甲を引っ掻いた。
朦朧とした意識の中で、僅かに締め付ける力が緩んだのを感じた。
目を開けた先は、暗闇だった。
妙に腹部が重い。
身じろぐと、それはモゾリと動いた。
暗闇に目が慣れ始めると、それが達樹だとわかる。
どうやら人の腹に乗っかって居眠りしているようだ。
「…達樹。重い、どけ」
達樹の髪を一房掴んで引っ張る。
ついでにそのまま頭を揺さ振ってやった。
「……ん、…ん……りん…?」
「他に誰がいる。寝惚けてないで起きろ。邪魔」
子供のように張りのない声で言うものだから、引っ張っていた髪を放して頭を撫でる。
暫くその心地に大人しくしていた達樹は、次第に意識を覚醒させ、ついには勢いよく身体を起こした。
「りん!…凛。……り、ん…」
「だから、他に誰がいるんだよ、馬鹿たれ」
耳元で大きな声を出された事も含め、軽く頭をはたく。
暗くてよく見えないが、涙の跡のようなものが見える。
頬の辺りから目元までをなぞると、僅かに濡れた感触を指先に感じた。
「…泣くくらいなら最初からするな。ど阿呆」
「………ごめ、…凛、俺…」
「ったく。本当に世話が焼けるね」
声を発する度に痛む喉を押さえる。
絞められていただろう場所を擦ると、ずきりと痛んだ。
痣になっているかもしれない。
…実のところ、こういった事が初めてではないのだ。
これまでにも何度か達樹の手で首を絞められた事はある。
無論、意識まで失ったのは初めてだったけれど。
また包帯を巻いて学校へ行かなければ。
毎度心配される身にもなって欲しいものだ。
「凛、痛い?」
「当たり前だろうが。あれだけ絞められたら痛みもする。お前は僕を殺す気か、馬鹿たれ」