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幸福な闇

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 「今日はいい天気よ。少し窓を開けるわね」と妻は病室の窓を開けた。
 たちどころに病院独特の薬品臭が薄れ、忘れかけていた生活感を含んだ「音」と「空気」が病室に流れ込んできた。
 束の間、僕はベッドに横になったまま、初夏の柔らかな気配に包まれた。
 今はどこも痛くない、不快な部分もない。
 すぐにでも立ち上がって、妻と二人で病院の中庭をのんびり散歩したい欲望を感じた。
 もちろん、そんなことができるはずもない。
 僕は病人だし、手術後間もない。鼻には呼吸を整えるチューブが通され、視界もボンヤリと霞んでいる。
 歩くことができるかどうかさえ微妙だった。
 でも心地よかった。
 長い夫婦生活の中で、幾度となくこんな場面があった。
 「会社に遅れるわよ」
 「子供を送っていってね」
 「休みだからっていつまで寝てるの!」
  ……
 時には怒り、時には呆れ、時には笑顔で、窓を開けながら大きな子供(僕)を起こす妻がいた。
 窓に目を向けると、ボンヤリと明るい空間があり、窓辺に立つ妻の姿が見えた。
 僕は腕を上げた。
 妻はそれに気づいた。
 「なに?」と妻がベッドに近寄ってきた。
 「おまえ…」他人みたいなかすれた声が僕の喉から出た。
 妻は僕の手をギュッとつかんだ。
 「幸せだったか?」僕は精一杯の力をこめて妻の手を握った。
 妻は微笑んだ(微笑みを浮かべた気配が感じられた)。
 「うん」
 僕の手を強く握りしめたまま妻は言った。
 「よかった」と僕は言った。
 「ありがとう」と妻は言った。
 
 それから僕は眠った。
 いくつも夢を見た。
 妻、子供、好きだった女の子、親友、小学生の自分、両親、嬉しかったこと、悲しかったこと、他人を傷つけたこと、深く傷つけれらたこと……。
 意味のあるもの、無意味なもの、忘れられないこと、忘れたかったこと……。
 何度も目覚めと眠りを繰り返した。

 最後に僕が目覚めた時、妻が僕の顔を悲しげな表情で覗き込んでいた。その後ろにはワイシャツ姿の息子、ジーンズ姿の娘の姿が見える。
 「仕事は?」「大学は休みか?」
 子供たちにかけようとした言葉は唇から向こうへは行かなかった。
 腕を動かそうとしても感覚が失われて動かせなかった。
 今が昼か夜なのかもわからなかった。
作品名:幸福な闇 作家名:ひで丸