虹と蜜柑と疫病神
【結】
呆然と座りこんで、順之輔はその様子を眺めていた。今までの悪天候が嘘のように、目の前には穏やかで美しい景色が広がっている。
「……なご……?」
なんだ今のは。
なごが川に飛び込んだかと思ったら、堤が決壊し、あっと思う前に目の眩むような光が射すようにそこら中を覆った。そして目を開けば、まるで春の日の様に長閑な景色が広がっていて、この長雨の形跡など何一つ見当たらない。
子猫を抱いたとよが信じられないといった表情でこちらを見ているが、順之輔にも何がなんだかさっぱり分からなかった。
「ちゃんとできたんですね、あの子は」
背中から声を掛けられ、ぼんやりした頭のまま振り返ると、眼鏡を外したいつかの男が川の様子を眺めていた。
何もかも心得たような男の視線に、順之輔の中にじわりと黒い感情が生まれる。まさか。
「……あなたの考えていることで、まぁおおむね間違ってないと思いますよ」
「アンタがなごをけしかけたのか」
なごが不思議な力を持っているのだろうということは、順之輔も何となく感じていたことだ。しかしだからといって、身投げだなんてとんでもないことをさせるなど、まともな人間のすることではない。
「あの子は自分を悪い存在だと思っていたようですが、違いますよ。むしろ幸運の神様といった方がずっと近い」
男は振り返った順之輔と目を合わせると、柔らかく笑ってみせた。
「あの子の能力(ちから)は強すぎる。そして未熟で、加減ができなかった。だから極端なことになって、結局は悪いことが起こる――だったら、あの子の力をできるだけ消費して、あの子自身で操れるまでに全体の量を減らしてしまえばいいんです」
「そしたらなごは死んだのか……もう二度と会えないことになっても、あんたは仕方ないですませられるのか!? そんなの誰が納得するか!!」
「あの子は死んでませんよ。まぁ……永の別れというならその通りですけど」
お別れはお別れに違いありません。
そう答えた男の言葉に、順之輔は眉根を寄せた。
死んでいないだなんて。あの濁流に呑まれて、水が透きとおった今になっても姿が見えないのに。
ふと、男が何もないところを指差す。
「……あの子は今、そこで気を失っていますよ」
「え……?」
「あなたには見えないでしょう?」
目を凝らすが、順之輔にはただ草が生えているようにしか見えない。でたらめを言っているのかとも思ったが、男の様子はとてもそうとは思えなかった。
「まず、見えていない。そして、あなたの声はあの子に届くでしょうが、あの子の声はきっとあなたには聞こえないと思いますよ。ましてや触れることなんて出来るはずがない」
あなたの妹さんなら分かりませんが、と、男は座りこんだとよを見て付け足す。
「死んではいない。けれど見えず、聞こえず、触れられもしないなら……それは、お別れ以外の何物でもない」
計画通りだったろうに、男の声にはどこか憐憫の響きがあった。
「……違いますか?」
話をしただけで、やたらと嬉しそうな表情を浮かべた子供。ちょっと世話を焼くだけのつもりだったのに、あまりにも離れることを怖がる様子を見て、きっと捨て子なのだろうと思った。
特別に哀れんだつもりはなかったけれど、それなりに同情はした。したから、できるだけ連れ回すようにしたし、色んな話をしてやろうと思ったのだ。
言ってみただけの言葉に食いついて、寂しがるなと懸命に励ましてくれた、小さな子供の泣き顔。
忘れない、大丈夫。だって自分がずっとここにいるから――そう約束してくれた、なごの気持ち。
約束したのだ。なごはずっとここにいる。見ることも話すこともできなくなったって、それなら出来るのだろう。きっと。
なごはきっと約束を守ってくれる。
だったら。
「……違うさ……」
「はい?」
「違うよ」
老人は軽く目を見開いたが、順之輔の顔を見下ろして、柔らかく微笑んだ。
だってなごは、順之輔が婿にいってもずっとここにいるのだ。いると思えば、会えなくても永の別れとは違う。ひょっとしたら何かの折りに、気配くらいは感じられるかもしれないのだから。
だからそれはきっと、別れではないだろうと順之輔は思った。
婿入りの日の朝、順之輔は準備もそこそこに、縁側へ腰掛けて茶を飲んでいた。
うららかな日差しの中でぼんやりと空を眺める。ここでこうするのも、きっと最後だ。
どこからか子猫が――あれから少し大きくなって子猫とはいえなくなったなごの猫が、庭に姿を見せる。
そして何もない所で立ち止まり、甘えて擦り寄るような仕草をした。
――そこにいるのか。
「……約束だぞ、なご」
呟けば、まるで春のような温かい風に頬を撫でられる。
くすぐったくて笑うと、その風は順之輔の周りを囲み、嬉しそうに笑った。
【終】