虹と蜜柑と疫病神
【六】
男の皺だらけになった手の甲に、十字の傷が現れた。まっすぐに突き出された男の右手が、傷の痛みのためかわずかに揺れる。
傷に滲んだ血はしだいに滴り始め、手首を伝って赤黒い筋を描き、地面に黒い染みを落とす。けれどたしかに落ちたはずのそれは、まるでぬかるみに呑み込まれててしまったかのように跡形もなく消えてしまった。
耳にうるさいほど降り注ぐ雨に頬を打たれながら、それでも男は微動だにせず、瞬きもせず目の前の気配に意識を集中させる。
雨の中をうごめく、闇色の影。かざしたてのひらが淡い光を湛えた。
それが目の前の気配を少しずつ覆っていくさまを見詰めていた男は、不意に目を閉じると静かに口を開く。
「……怯えなくていいんですよ。あなたがこれから行く場所は、なにも怖い所ではないのですから」
もがくように漂っていた影は唐突に動きを止め、光に照らされて少しずつ薄くなっていった。しだいに影の向こう側が見えるようになり、消えていく影と一緒に、男のてのひらを包んでいた淡い光も徐々にその力を弱めていく。
やがて影と光が完全に消えてしまうと、男の手の甲に浮かんでいた十字の傷も消えた。
そうなってようやく、男は体から力を抜く。
傷の痛みが残っているのか軽く右手を振って、痺れをとるように何度か握りこぶしを作ると、大きく溜息をついて眼鏡を外した。水滴だらけのレンズに目的は果たせないのだ。
「まったく……どこへ行っても私の役目は変わらない、か」
腕で顔をぬぐうが、だんだんと嵐のようになってきた雨のせいで全く意味がないことまた溜息をつく。
“石原のお人好し四男坊”の陰に、まるで隠れるように縋りついていた子供の姿を思い出し、男はどうしたものかと眼鏡を持った手で額を掻いた。
「……誰かがあの子の前で、雨乞いでもしたんじゃないでしょうね……?」
この調子で雨が降り続けば、じきに近くの川が氾濫するだろう。下手をすれば、村の畑という畑が全部流されてしまう。
「……どうしたものか……」
皺だらけの男の顔を打った水滴は顎を伝ってしたたり落ち、降り注ぐ雨にまぎれてすぐに分からなくなってしまった。
嵐のような雨の中、勝手に借りてきた笠と蓑をかぶったなごは、きょろきょろと辺りを見回しながら畦道を駆けていた。子猫がいなくなってしまったのだ。
呼んでみようにも何と呼べばいいのかわからず、こんなことなら早く名前を付けてあげればよかったと肩を落とす。
あの日から一向に気配を見せない雨のせいで今にも氾濫しそうな川の様子に、村の男が総出で補強作業を行っているせいか、村は酷く静かだった。村の中でも特に低い位置に建っている家なんかは、ひょっとしたらもう浸水が始まっているかもしれない。そういう家の人間は、すでに山の上の神社に避難しているはずだった。
ぬかるみを走り抜けながら、頭の片隅をちらつく“原因”という言葉に、なごは首を振ってそれを追い出す。
相変わらず雨は強い。もともと体格に合っていなくて隙だらけだった笠と蓑は、もうほとんど意味がなくなってしまった。
順之輔はどうしているだろう。川辺にいるはずだが、大丈夫なのだろうか。子猫はどこだろう。順之輔の家族は、屋敷は。
子猫は一向に見つからない。どれだけ走っても息が切れることはなかったけれど、視界が聞かない中を探し続けるのが辛くなってきて、なごは一度屋敷に戻ろうときびすを返した。あと一歩進んだ先で子猫を見つけられるかもしれないと思いながら、でも振り返ったその先にいるかもしれないと思い込む。そういうことがない訳ではないのだ。
――ぼくのせい――
唐突に、必死に目を逸らしていたことが明確に頭の中に浮かんで、なごの喉が震えた。こらえる間もなく涙が溢れて、しかしそれはすぐに雨に流されて熱くなったまぶたが冷える。
どうしたらいい。順之輔から離れたくない。子猫がいなくなってしまうのは嫌だ。とよに拒まれるのも――誰に拒まれることも、気付いてもらえないことも、受け入れてもらえないことも嫌だ。
なごはただ、人間と一緒にいたかっただけなのに。
辛さに耐えられず思い切り駆けたら、すぐに屋敷に着いてしまった。
庭を見回してみるが、やっぱり子猫はいない。土間に駆け込むと、順之輔の兄嫁にこの嵐の中どこに行っていたのかと叱られて竦みあがる。
叱りながら手ぬぐいで顔やらを拭う兄嫁の妙な気迫に固まっていると、とよを知らないかと聞かれて、なごは目を見開いた。
「……とよさん、いないの?」
「そう。お前と一緒にいなくなったからさ、連れ立ってどこに行ったんだろうと思ってたんだけど……」
探しに行った方がいいね、と手ぬぐいを差し出し、兄嫁はなごからひっぺがした蓑をかぶる。
それを見上げて呆然としていたなごは、はっと我に返ると、制止の声も聞かず弾かれたように再び屋敷を飛び出した。
どうして皆いなくなってしまうのだろう。とよも、子猫も、老婆も。全てのことが悪い方へ悪い方へと転がっていくのは――
――やっぱり自分が、疫病神だからなのだろうか。
順之輔を呼ばないと。とよはきっと順之輔に傍にいてほしいと思っているはずだ。迎えに行って、連れて行かないと。早く、早く。
そう強く思うだけで、なごは風のように走ることができた。土砂降りの中にもかかわらず、ほとんど濡れずにぬかるみを駆ける。川岸のどこだろう。一番崩れやすい堤は、たしか。
「どこに行くの?」
いきなり耳元で囁かれたように、男の声が酷く近くから聞こえた。大してうろたえもせず目を凝らせば、向かう先にあの男が待ち構えているのが分かる。
怖いと思う余裕なんかない、止まる暇なんかないのだ。あの男が他の“なごのような存在”にしていたように、自分を消すつもりなのだとしても――消えてたまるものか。だって。
さらに速度を上げる。笛のようだった風音がさらに鋭い音を立てはじめ、なごが駆けた跡が轍のように溝を作った。
「どいてよ……っ」
「待ちなさい」
「どいてっ!!」
加減せずに突っ込む。
しかし男は驚きもせず、かざした右手でなごの胸に軽く触れた。
触れた部分を中心に、爆ぜるようにして風が生まれる。それは男の笠を吹き飛ばし、なごの髪を揺らす。
しばらくして、なごの頬が雨に濡れはじめた。滴は顎を伝い――涙と一緒になって男の腕に零れ落ちる。
「……お願い、どいてよ……」
「待ちなさい。落ち着いて。どこに行くつもりなんだい?」
「どいてってば、どいてよ! ぼく行かなきゃ! とよさんが順之輔のこと待ってるの、ぼくが連れて行かないと! だって知ってるのはぼくだけなんだから!!」
「待ちなさい!」
大暴れで食って掛かるなごをどうしようと思ったのか、男はなごを羽交い絞めにすると、淡く光った右手を目の前に突き付けた。無意識に息を呑むが、そうしてしまう自分が悔しくてなごは歯を食いしばる。溢れる涙が止まらない。
こんな時でも自分が大事な自分が、堪らなく嫌だった。この期に及んで消えたくないだなんて、自分のせいでこんなことになったのに。
「……落ち着いた?」