close your eyes-瞳を閉じて-
Ein Kapitel #1「prologue?浮遊?」
だんだんと、世界は僕を見放していく。
もう、苦しさも感じない。僕だけ世界から浮き彫りにされたように、ふわふわと漂っている。
勢いよく階段を駆け上がった。そんな気がした。
勢いよく扉を蹴破った。そんな気がした。
でも、そんなことはもうどうでもいい。そんな気がした。
今なら飛べる。そんな気がした。
気がついたら俺は世界にすっぽりと収まっていた。綺麗に、まるで何もなかったように。ぼんやりとする頭は、さながら泡の中にいるような感覚を俺に齎した。まだ良く回らないその頭で、「事」を思い返す。まず俺はここで何をしているんだろう。俺は何故ここにいるんだろう。詳しい情報なんて思い出せやしなかった。思い出せないわけではないんだろうが、俺にはただの瑣末事に思えてならなかった。ただ、分かることは、俺は飛んでいた。自由に、何にも縛られずに飛んでいた。羽根でも付いたかのように、空を飛んでいた。鮮明に、ただそれだけを覚えていた。
どうも夜らしい。カーテンが締め切られていた。暗いのに良く分かるのは、此処は白い箱だということだ。さながら俺は実験台のポケットマウスのようだ。
腕に伸びているビニールの管。点滴がぶら下がっている。
ああ、そうか、ここは病院なんだ。
よくよく考えると自分の発想のバカバカしさにほとほとため息が出た。
急速に頭が冷えていく。現実に戻っていく。
点滴を引きちぎって、俺はスライドドアを開けて廊下へ出た。時計の針が差していたのは午前二時半。まだ真夜中だった。看護師が見回りに来てもおかしくない。急ごうと思った。俺は何をしたいか分からないけど、とにかく逃げ出したかった。
また、空を飛びたかった。
走る。兎にも角にも外の空気を求めて。病的な白い壁を、床を、天井を抜けて、階段を駆け上る。きっと下に行けば、ロビーで捕まる。逃げたい。全てから。頭がまた、熱を帯びて蕩けていく。景色が歪む。ふわふわと世界から外れていく。
でも、それも不完全燃焼で終わった。現実に引き戻される。呻き声が聞こえる。人とは思えない奇声で呻いている。曲がろうとした角側のドアが半分ほど開いており、気が滅入る橙色の光と看護師らしき女性の影が見える。
「神楽さん、落ち着いてくださいッ!」
「あ、があ、ぎッ……」
「山口さん、鎮静剤と先生を!」
指示されて部屋から出てきた看護婦がこちらに気づく。不味いと思った。でもどうやらそれどころではないらしい。
「君、病室にもどっておきなさい」
そう一言注意されただけだった。看護婦は俺の前を通り過ぎ、下の階へ下りていく。
さらに揉み合いは激しさを増した。何かが床に落ちる音、ガラスが割れる音、もう途中から訳が分からなくなった。
「アアアアッ……ああグ……」
俺はドアを覗いた。
目に包帯を巻いていた女の子だった。下唇からは血があふれていた。きっと歯でいくつか肉を噛み千切ったのだろう。腕や首には掻き毟った後。吐き気に襲われる。そして一瞬の暗転。
俺は逃げた。もうどうでも良かったんだ。ただ空を、またもう一度。
ドアを開け放つ。空が見えた。世界が広がる。下にある物を照らす満点の星。手を伸ばしたら届くだろうか。
走った。ただひたすら空を目指して。
気付いたらまた飛んでいた。でも、そこまでしか思い出せなかった記憶の先。
飛ぶという現象には墜落という結果があること。
空中でなんでも空と大地が入れ替わった。ただ確実に落ちていくのがわかった。
空が、遠ざかっていく。
何時目が覚めたかはわからない。でも気がつけばまた、俺は世界に収まっていた。
風がやわらかい。昼なのだろう。日が暖かい。日めくりカレンダーに目をやると、5月16日と記されていた。穏やかな空気が俺を取り巻いている。
俺はなんとはなしにベッドから降りようとした。しかし、何故か足が動かない。ふと見ると、右足が吊るされていた。
折れた、という事実がなんとなく分かった。優しかった気持ちが波立つ。
「ッ……!」
吊るしている布に手を伸ばし、がむしゃらに引っ張った。足をタイルの地面につける。感覚はない。麻痺しているようだったバランスを崩し倒れる。不思議とその光景に既視感があった。
地面が迫ってくる、その光景に。
ついさっきのように感じるあの墜ちていく感覚。空が遠ざかり、何度も体が空中で回転し、着実に地面が迫ってくるあの感覚。
ガタン!
一瞬のフラッシュバックから覚めた時には倒れていた。
嫌な記憶がよみがえった。そう、俺は屋上から身を投げ出した。空を飛ぼうとして、当然のように墜ちていったんだ。
自分が惨めでならなかった。この命が終わるときもこんな風に頬を地面に擦り付けて、動かない足を引き摺るように、終わりを迎えるのだろうか。
「……嫌だ」
手を必死に動かす。右足を引きずる形で這う。その時スライドドアが開く。
「ッ!久遠さん!足が折れているんですよ!なにやっているんですか!」
近くにいた看護士数人によって俺はベッドに戻された。
「触るな!離せよ!歩くんだよッ!」
男の医師もきて、足が折れている俺は成す術なく押さえ込まれるしばらく男性医師はどこかへいっていたが、やがて戻ってくると、腕を強く固定され、細い針が俺の血管へと届く。先端恐怖症の俺は動くことも、騒ぐこともできなかった。
「鎮静剤を注射した。これで暫くすれば落ち着くだろう。」
医師の声が聞こえたのをスタートラインにして、眠りというゴールにむけて俺の身体は全力疾走していった。
三度目の天井。そばには看護士がいる。枕元にある飲み物から水滴が額に落ちる。
「久遠 悠君。あなたの置かれている状況を今から説明します落ち着いてくださいね」
優しい声で話しかけられる。何を言っているかはわからなかった。
「貴方は11月23日未明、地元の学校の屋上から飛び降り自殺を図りました。奇跡的に下が花壇だったため一命を取りとめ、その後当病院に搬送されました。」
今の俺に文章を理解するだけの能力はない。しかしひとつひとつの単語に頭が痛んだ。
「飛び降り、自殺……?」
違う。俺は空を飛ぼうとしただけだ。自殺なんて…。
「あなたは今精神的にパニックになっています。一部記憶や感情に混乱があるのは仕方ありません。これからゆっくり治していきましょうね。」
精神的パニック…?意味がわからない。実感が湧かない。理解できない。その後医師が食事のスケジュールや退院までの日程を喋っていた。俺はそんなもの知らない。
俺は、誰だ?
俺は松葉杖をついて何処へともなく歩いた。脇を車椅子の老人や、腕などを包帯で固定した男の子が抜けて行く。
俺は久遠 悠。それが俺の名前。それなのによく分からない。なにが分からないのかも、分からない。何かが物足りない……。
俺は気づくと足を止めていた。既視感のある場所だった。階段のそばにある病室。ネームプレートには名前が書いていない。頭痛が走る。昨日の出来事を必死に探る。
そこは、あの少女の病室だった。
まるでそれが運命だと悟ったかのようだった。スライドドアの鉄の取手を握る。そして、そっと開けた。
だんだんと、世界は僕を見放していく。
もう、苦しさも感じない。僕だけ世界から浮き彫りにされたように、ふわふわと漂っている。
勢いよく階段を駆け上がった。そんな気がした。
勢いよく扉を蹴破った。そんな気がした。
でも、そんなことはもうどうでもいい。そんな気がした。
今なら飛べる。そんな気がした。
気がついたら俺は世界にすっぽりと収まっていた。綺麗に、まるで何もなかったように。ぼんやりとする頭は、さながら泡の中にいるような感覚を俺に齎した。まだ良く回らないその頭で、「事」を思い返す。まず俺はここで何をしているんだろう。俺は何故ここにいるんだろう。詳しい情報なんて思い出せやしなかった。思い出せないわけではないんだろうが、俺にはただの瑣末事に思えてならなかった。ただ、分かることは、俺は飛んでいた。自由に、何にも縛られずに飛んでいた。羽根でも付いたかのように、空を飛んでいた。鮮明に、ただそれだけを覚えていた。
どうも夜らしい。カーテンが締め切られていた。暗いのに良く分かるのは、此処は白い箱だということだ。さながら俺は実験台のポケットマウスのようだ。
腕に伸びているビニールの管。点滴がぶら下がっている。
ああ、そうか、ここは病院なんだ。
よくよく考えると自分の発想のバカバカしさにほとほとため息が出た。
急速に頭が冷えていく。現実に戻っていく。
点滴を引きちぎって、俺はスライドドアを開けて廊下へ出た。時計の針が差していたのは午前二時半。まだ真夜中だった。看護師が見回りに来てもおかしくない。急ごうと思った。俺は何をしたいか分からないけど、とにかく逃げ出したかった。
また、空を飛びたかった。
走る。兎にも角にも外の空気を求めて。病的な白い壁を、床を、天井を抜けて、階段を駆け上る。きっと下に行けば、ロビーで捕まる。逃げたい。全てから。頭がまた、熱を帯びて蕩けていく。景色が歪む。ふわふわと世界から外れていく。
でも、それも不完全燃焼で終わった。現実に引き戻される。呻き声が聞こえる。人とは思えない奇声で呻いている。曲がろうとした角側のドアが半分ほど開いており、気が滅入る橙色の光と看護師らしき女性の影が見える。
「神楽さん、落ち着いてくださいッ!」
「あ、があ、ぎッ……」
「山口さん、鎮静剤と先生を!」
指示されて部屋から出てきた看護婦がこちらに気づく。不味いと思った。でもどうやらそれどころではないらしい。
「君、病室にもどっておきなさい」
そう一言注意されただけだった。看護婦は俺の前を通り過ぎ、下の階へ下りていく。
さらに揉み合いは激しさを増した。何かが床に落ちる音、ガラスが割れる音、もう途中から訳が分からなくなった。
「アアアアッ……ああグ……」
俺はドアを覗いた。
目に包帯を巻いていた女の子だった。下唇からは血があふれていた。きっと歯でいくつか肉を噛み千切ったのだろう。腕や首には掻き毟った後。吐き気に襲われる。そして一瞬の暗転。
俺は逃げた。もうどうでも良かったんだ。ただ空を、またもう一度。
ドアを開け放つ。空が見えた。世界が広がる。下にある物を照らす満点の星。手を伸ばしたら届くだろうか。
走った。ただひたすら空を目指して。
気付いたらまた飛んでいた。でも、そこまでしか思い出せなかった記憶の先。
飛ぶという現象には墜落という結果があること。
空中でなんでも空と大地が入れ替わった。ただ確実に落ちていくのがわかった。
空が、遠ざかっていく。
何時目が覚めたかはわからない。でも気がつけばまた、俺は世界に収まっていた。
風がやわらかい。昼なのだろう。日が暖かい。日めくりカレンダーに目をやると、5月16日と記されていた。穏やかな空気が俺を取り巻いている。
俺はなんとはなしにベッドから降りようとした。しかし、何故か足が動かない。ふと見ると、右足が吊るされていた。
折れた、という事実がなんとなく分かった。優しかった気持ちが波立つ。
「ッ……!」
吊るしている布に手を伸ばし、がむしゃらに引っ張った。足をタイルの地面につける。感覚はない。麻痺しているようだったバランスを崩し倒れる。不思議とその光景に既視感があった。
地面が迫ってくる、その光景に。
ついさっきのように感じるあの墜ちていく感覚。空が遠ざかり、何度も体が空中で回転し、着実に地面が迫ってくるあの感覚。
ガタン!
一瞬のフラッシュバックから覚めた時には倒れていた。
嫌な記憶がよみがえった。そう、俺は屋上から身を投げ出した。空を飛ぼうとして、当然のように墜ちていったんだ。
自分が惨めでならなかった。この命が終わるときもこんな風に頬を地面に擦り付けて、動かない足を引き摺るように、終わりを迎えるのだろうか。
「……嫌だ」
手を必死に動かす。右足を引きずる形で這う。その時スライドドアが開く。
「ッ!久遠さん!足が折れているんですよ!なにやっているんですか!」
近くにいた看護士数人によって俺はベッドに戻された。
「触るな!離せよ!歩くんだよッ!」
男の医師もきて、足が折れている俺は成す術なく押さえ込まれるしばらく男性医師はどこかへいっていたが、やがて戻ってくると、腕を強く固定され、細い針が俺の血管へと届く。先端恐怖症の俺は動くことも、騒ぐこともできなかった。
「鎮静剤を注射した。これで暫くすれば落ち着くだろう。」
医師の声が聞こえたのをスタートラインにして、眠りというゴールにむけて俺の身体は全力疾走していった。
三度目の天井。そばには看護士がいる。枕元にある飲み物から水滴が額に落ちる。
「久遠 悠君。あなたの置かれている状況を今から説明します落ち着いてくださいね」
優しい声で話しかけられる。何を言っているかはわからなかった。
「貴方は11月23日未明、地元の学校の屋上から飛び降り自殺を図りました。奇跡的に下が花壇だったため一命を取りとめ、その後当病院に搬送されました。」
今の俺に文章を理解するだけの能力はない。しかしひとつひとつの単語に頭が痛んだ。
「飛び降り、自殺……?」
違う。俺は空を飛ぼうとしただけだ。自殺なんて…。
「あなたは今精神的にパニックになっています。一部記憶や感情に混乱があるのは仕方ありません。これからゆっくり治していきましょうね。」
精神的パニック…?意味がわからない。実感が湧かない。理解できない。その後医師が食事のスケジュールや退院までの日程を喋っていた。俺はそんなもの知らない。
俺は、誰だ?
俺は松葉杖をついて何処へともなく歩いた。脇を車椅子の老人や、腕などを包帯で固定した男の子が抜けて行く。
俺は久遠 悠。それが俺の名前。それなのによく分からない。なにが分からないのかも、分からない。何かが物足りない……。
俺は気づくと足を止めていた。既視感のある場所だった。階段のそばにある病室。ネームプレートには名前が書いていない。頭痛が走る。昨日の出来事を必死に探る。
そこは、あの少女の病室だった。
まるでそれが運命だと悟ったかのようだった。スライドドアの鉄の取手を握る。そして、そっと開けた。
作品名:close your eyes-瞳を閉じて- 作家名:紅蓮