Childlike wonder[Episode1]
Episode1 Childlike wonder、参上!(1)
「アッシュ……」
声が、俺を呼んでた。
「アッシュ、貧しいからって心まで貧しくなってはいけないの」
この声を俺は知ってる。
そう、ママの声だ。
ママは優しくて綺麗で、うちは貧乏だったけどそれでも楽しかった。
毎年誕生日をちゃんと祝ってくれて。クリスマスには、小さいけれどケーキも用意してくれて。
うちにはパパがいなかったけど、そんな事なんて、気にもしなかった。
「アッシュ……困っている人を助けてあげるような、立派な大人に……なってね……」
だけどさ……。
――ママは、三年前に事故で死んだんだけど……?
「ぐ……」
絞り出すようにうめいて、アッシュは体をわずかに身震いさせた。
アッシュことアシュレイ・フィールドは、灰色の髪を短く刈り上げた十歳の少年だった。身長は百十センチほどで大きい方ではない。熱い夏ということもあり、彼はタンクトップを羽織り、膝丈のミリタリー柄のパンツを着て、サンダルを履いていた。
「いつ……っ」
アッシュは体を起こそうとして、起こせない事に気づく。仰向けに寝転んだその上に、崩れた壁らしきものがのしかかっていた。
ここは、"ウッドシティ"最大の総合施設、"ペルファボーレ"。全体で三万七千平方メートルを越える建物内には様々なショップが並び、ここに来れば食品から生活用品、挙句にペットまで何でも揃うショッピングモールである。そんなわけで、市民から重宝されている場所だった。
その搬入口近辺のゴミ捨て場で、アッシュがいつも通り残飯やその他のゴミを漁っていた時。
激しい爆音が響いたと思うと、上から壊れた壁が降ってきて、そこから意識が無かった。広かった搬入口は天井が完全に崩れ、建物のあちらこちらから煙があがっている。何が起こっているかは分からなかったが、異変が起こっているというのはよく分かっていた。
「いってぇ……」
とりあえずアッシュは口に出してみる。全身あちこちが痛むが、特に胸の痛みが致命的だった。
強大な、圧迫感。
押しつぶされる痛みはもちろん、ずきんずきん、と内から響く鋭い痛みもアッシュは感じていた。おそらく、壁に押しつぶされた際に、骨が折れているのだ。
アッシュの小さい体は、いまにも完全に押しつぶされそうだった。のしかかる壁の一部は、幸い他の欠片に支えられ、その重さを分散させてはいる。だが、その支えはすでにひび割れており、時間の問題だと思えた。
体をよじると、下半身が完全に挟みこまれて動かせないことが分かる。両手で踏ん張って体を引き抜こうとするが、びくともしない。足首と膝が完全にひっかかってしまっており、ここから出るのは不可能だろうと、アッシュはため息をついた。
(……死ぬのかなあ)
アッシュは空を見上げてふと思う。ここにきて、"死"という現実が妙にリアルに感じられ、少しだけ身震いした。
思えば、ママが死んで三年。
全てを失ったアッシュは、理不尽な運命と戦っていた。施設に入ったのはいいが、マフィアの地上げにあって施設もすぐに無くなってしまった。それからは路上生活を強いられ、毎日を生きるだけで精一杯なのだった。
(……もう、いいや……)
すでに、アッシュの意識は朦朧としていた。
今という現実を、受け入れようとして。
……そうだ。
悪いことばかりでもない。
ママと再会できるのであれば、それも悪くない――。
「これはひどいわネ」
そんな事を考えて朦朧としていたアッシュに、不意に声が届いた。
少女の声が、いきなり場に響いたのだ。
「……?」
ゆっくりと、瞳を開ける。そこに、人影があった。
一人の、少女だった。
身長はアッシュより少し小さいぐらいだろうか? キャラメル色の長い髪をポニーテールに結わえて、ワンピースの下にスパッツを履いている。柔らかく波打つスカートは、ふわりと風に揺れて穏やかな雰囲気を醸し出しており、銀フレームのメガネをかけているのが彼女を知的に見せていた。背中にはランドセルを背負っており、その肩ベルトを両手で持ちながら、アッシュを見下ろしている。
わずかにふわりと香るのは、ガーベラの甘い香り。彼女がつけている香水だろうか? とにかくそれが彼女の雰囲気を柔らかく見せていた。
「ちょ、そこに乗ったら苦しい! 重いから!」
そう、少女はアッシュの上にのしかかる壁の上に、立っていたのだ。
「あら? ごめんねー、すぐに楽にしてあげるからネ……」
少女が言いながら、腰を落として乗っている壁へと手を触れる。
「"こだわりを捨てて……Небольшая надежда(ネボリシャ ナデズダ)"!」
小声で何かを呟くと、壁に触れた手がわずかに光る。
(……?)
アッシュは呆然としたまま、それを見つめていた。一体何が起こっているのか、さっぱり分からない。
しかし、すぐに異変が起きるのにアッシュは気づく。体にのしかかる重みが、明らかに軽くなった。
いや、軽くなったどころではない。そこにあるはずなのに、まったく重みを感じない。そこに本当にあるのかさえ、疑いたくなった。
不思議に思って、右手を伸ばして壁をぐっと持ち上げてみる。それはまるで重みを感じず、ひょい、と簡単に持ち上がってしまった。
「きゃあっ!?」
不意に足元が動いたせいで、少女はそのまま後ろにすてんと尻餅をついてごろごろと転がっていったが、アッシュは気にもしない。
「……なんで……?」
アッシュはゆっくりと壁を持ち上げながら、体を起こしてゆく。立ち上がって壁を支えている姿はまるでヒーロー映画のワンシーンのようで、さながら「ヘイ、ヒーローは死なないって知ってるか?」とでも言えば良いのか、などとアッシュは考えて、頭をぽりぽりと掻いた。
「ちょっと、いきなり動かないでヨ!」
影から、少女が飛び出してきた。両手を腰にあてて、ぷんすかと怒った顔で、今にも頭から湯気を出さんばかりに。
「ごめん、そういうつもりは無かったんだけど……いつっ」
苦笑いしながら答えて、不意の胸の痛みにアッシュは顔をしかめる。額には油汗が滲み、その辛さを物語っていた。
「あら? 怪我してるの?」
「すげぇ痛い……いつつ……」
壁を横に放り出して、両手で胸を抑える。支えを失った壁は重力に従って倒れ、地面にぶつかるとまるで発泡スチロールのように軽く跳ねた。
「すぐ助けが来るから、もうちょっと待っててネ」
言って少女はアッシュに駆け寄り、肩を貸す。アッシュは素直に体重の一部を預けると、さくらんぼの甘い香りが鼻をくすぐった。
「……ワタシはナターリヤ。キミは?」
「俺はアッシュ。アシュレイ・フィールド、十歳」
「あら? ワタシより年下なのネ。"お姉さん"って呼んでいいからネ」
屈託の無い笑顔でさらりと恐ろしい事を言うと思い、アッシュは苦笑だけして何も言わなかった。
「……あ、来た来た」
ナターリヤの声にアッシュが見上げると、そこには二つの人影があった。
「げ……っ!」
その光景に、アッシュは思わず絶句する。
それもそうだ。
その二人は、宙に浮いていたからだ。
「お待たせ、ナターリヤ。こっちの様子はどうだい?」
作品名:Childlike wonder[Episode1] 作家名:勇魚