雨色に嫉妬。
髪はじっとり湿っぽくなるし、手は傘で占拠されてされる。学校の鞄を電車の床に置くと濡れてしまうし、なんだか気分がブルーとなってしまう雨なんて大嫌いだ。
湿気を帯びて張り付いてくるペールブラウンのワイシャツを、指で摘んで皮膚から引き剥がすと肩からずり落ちる鞄を定位置へと戻した。
「…………なに、これ」
改札を出ると目の前は滝のような雨が広がっていた。傘は小さな折り畳みしか持ち合わせていないので濡れるのは必至だ。
鞄から傘を取り出してさすものの、青空のような色をした折り畳みは雨の重圧に耐えるのがきついのか、腕ががたがたと震えた。
空は雨が多すぎて白く霞んで見えた。晴れているのは傘の中だけであった。
いつも通る町並みはまるで廃墟と化したように物音一つなく、人っ子一人いない状態で世界に自分しかいないような幻想を覚えた。足音も大きな雨音に消え去ってしまってなんとも寂しい光景だ。
息を吐いても、水溜まりを踏み潰しても、辺りは何も影響を与えないように思えた。もし、大音量で叫んでも聞こえないかもしれない。
世界から拒絶されたような気分になる。死んでしまったかも知れないと腹を抱えて笑い込みたくなる。
「……あれ、」
目の前に黒い影が見えた。近付くとそれは人の形をしているが、人形のように動かなくて雨に濡れていた。誰かが冗談で見窄らしい裏道にマネキンを置くとは思えないし、やっぱり人なのだろうと、喉を張り裂けそうな迄にフル稼働させて叫んでやれば人影はこちらを向いた。
ざぁざぁ、耳をつんざくような雨の音。ぐしゃぐしゃのローファーで転けないように、気を付けながら走って行けば、それは一人の男性だった。
髪はシャワーを浴びたように、身体全体が濡れ鼠だ。背伸びをして顔を覗き込めば黒くくすんだ瞳が見える、鼻梁はスッと通っており中々美形であった。
(なにを考えてるんだろう)
と首を揺すって意見を吹き飛ばしていれば男は不思議そうに首を傾げていた。そりゃそうだろう、まるで犬が水しぶきを払うような仕草のようだろうから。
「何してるんですか?」
「あぁ……死のうと思ってね」
名も知れぬ彼は白い腕を掲げた。そこには紅い傷が縦横無尽に散っていて、幾何学模様のように意味のない柄が描かれている。それがまるで絵画のように綺麗で、リストカットだと思えない程であった。
「リストカットで人は死ねませんよ」
「切ってから湯船に付けたら死にやすいらしいし、今日なら行けるんじゃないかな」
彼は返答するのが心底面倒そうに、話していた。自殺をしようとしている所に妨害された気分も害すかもしれない。
「どうして死にたいんです?」
「ここで会ったのも何かの縁だ、理由が知りたいなら話してあげるよ。……私は高校の教師だ」
言われて驚いた。雨の所為で顔の細部はわからないものの、幼そうな顔立ちに見えたものだから、勝手に年の差は五つもないだろうと決め込んでいたのに。
「そこで私は、とある生徒と恋に落ちた。表沙汰にならないようにしてたのだけど、ある日ばれてしまってね。その子は学校を自主退学して、私は謹慎処分を喰らったんだ。けれど来週の月曜で謹慎が解除されてしまうから、その前に大好きな雨の下で死のうと思って」
雨の中伸ばされた腕は白く、彫刻のようだった。顔の彫りも深く芸術のようである。
「だから、死ぬんですか。もし彼女の方がアナタの事をまだ好きだったら、どうするんです!」
叫んだ後に近くにある、雨が当たりにくい商店街のガード下へと腕引っ張る事で連れ込めば、驚いたように目を大きく開けたものの、すぐに伏せて目線を逸らされる。
「……それはないよ。だって、お遊びだったらしいから」
それに、と彼は付け足した。
「私の恋人は男性だよ。叶う訳なんてないのにね」
あははは。と目許を押さえて喘ぎ声のような笑い声をあげている。目の前の相手は確実に男性なのに、この人は恋人を男と言った。それが不思議で、えっ、と零した言葉を聞いたのだろう、血が付いていない方の腕で頭をわさわさ撫でてくる。
「私は同性しか愛せないんだ。ふふ、気持ち悪いだろう?」
今以上に髪の毛が濡れて気持ち悪い、なんて思う前に今にも泣き出しそうな━━いや、もう泣いいるとしか思えない顔に釘付けであった。学校の先生をしているというのだから、少なくとも十は離れている筈の男なのに、酷く庇護欲をそそられる表情をしていた。
「別に……それは人の自由他ならない、ですよ。だから、そんな顔しないでください」
「それは君に悪い事をした。こんな、憂鬱な雨の日に、憂鬱な話なんて最悪だものね」
水が滴る髪の毛を掻き上げてた姿はまるで映画のワンシーンのようにも見えた。
「いえ、大丈夫です」
「……少し、気分が楽になったよ。君が構わないのならメルアドを頂けないかい? 今度改めて礼をしたい」
断るにも断りきれず、雨対策にとジップロックに突っ込んだ携帯を取り出して、電源をつける。
「別に構わないですが……。携帯、濡れて駄目になってはいませんか?」
「いや。いつも雨を見にふらふらしているものだからね、防水携帯にしているんだ」
通常の携帯より一回り大きいそれは水に濡れていても、画面は色鮮やかに待ち受けが見えた。
「じゃあ、赤外線で受信してくれるかな」
携帯と携帯の黒いポートを突き合わせば、画面に受信を完了しました、と文字が見える。表示された名前は「長谷堂」の一文字。どこかで見た名前だと思いつつ、そのアドレスに自分の名前だけ書いてメールを送る。
「やっぱり若い子は携帯、早いんだね。登録させて貰うよ、木幡さん」
不器用そうに携帯を押して、登録をしたようだ。なんだか申し訳なさそうに頭を掻いてごまかしている。
「こちらこそ、長谷堂さん」
「……もう暗くなってきたし、そんなにずぶ濡れじゃ風邪をひいてしまうから、早く帰った方がいいかも知れないね」
空を仰ぎ見て、長谷堂さんは呟いたかと思えば、埋め合わせは今度、と手をひらひらさせながら雨の中に消えていった。
傘を渡した方が良かったかもしれない、と思いつつ自分も帰る事にした。
長谷堂なんて聞いたら忘れなそうな名前だなぁ、と考えながら。
湿気を帯びて張り付いてくるペールブラウンのワイシャツを、指で摘んで皮膚から引き剥がすと肩からずり落ちる鞄を定位置へと戻した。
「…………なに、これ」
改札を出ると目の前は滝のような雨が広がっていた。傘は小さな折り畳みしか持ち合わせていないので濡れるのは必至だ。
鞄から傘を取り出してさすものの、青空のような色をした折り畳みは雨の重圧に耐えるのがきついのか、腕ががたがたと震えた。
空は雨が多すぎて白く霞んで見えた。晴れているのは傘の中だけであった。
いつも通る町並みはまるで廃墟と化したように物音一つなく、人っ子一人いない状態で世界に自分しかいないような幻想を覚えた。足音も大きな雨音に消え去ってしまってなんとも寂しい光景だ。
息を吐いても、水溜まりを踏み潰しても、辺りは何も影響を与えないように思えた。もし、大音量で叫んでも聞こえないかもしれない。
世界から拒絶されたような気分になる。死んでしまったかも知れないと腹を抱えて笑い込みたくなる。
「……あれ、」
目の前に黒い影が見えた。近付くとそれは人の形をしているが、人形のように動かなくて雨に濡れていた。誰かが冗談で見窄らしい裏道にマネキンを置くとは思えないし、やっぱり人なのだろうと、喉を張り裂けそうな迄にフル稼働させて叫んでやれば人影はこちらを向いた。
ざぁざぁ、耳をつんざくような雨の音。ぐしゃぐしゃのローファーで転けないように、気を付けながら走って行けば、それは一人の男性だった。
髪はシャワーを浴びたように、身体全体が濡れ鼠だ。背伸びをして顔を覗き込めば黒くくすんだ瞳が見える、鼻梁はスッと通っており中々美形であった。
(なにを考えてるんだろう)
と首を揺すって意見を吹き飛ばしていれば男は不思議そうに首を傾げていた。そりゃそうだろう、まるで犬が水しぶきを払うような仕草のようだろうから。
「何してるんですか?」
「あぁ……死のうと思ってね」
名も知れぬ彼は白い腕を掲げた。そこには紅い傷が縦横無尽に散っていて、幾何学模様のように意味のない柄が描かれている。それがまるで絵画のように綺麗で、リストカットだと思えない程であった。
「リストカットで人は死ねませんよ」
「切ってから湯船に付けたら死にやすいらしいし、今日なら行けるんじゃないかな」
彼は返答するのが心底面倒そうに、話していた。自殺をしようとしている所に妨害された気分も害すかもしれない。
「どうして死にたいんです?」
「ここで会ったのも何かの縁だ、理由が知りたいなら話してあげるよ。……私は高校の教師だ」
言われて驚いた。雨の所為で顔の細部はわからないものの、幼そうな顔立ちに見えたものだから、勝手に年の差は五つもないだろうと決め込んでいたのに。
「そこで私は、とある生徒と恋に落ちた。表沙汰にならないようにしてたのだけど、ある日ばれてしまってね。その子は学校を自主退学して、私は謹慎処分を喰らったんだ。けれど来週の月曜で謹慎が解除されてしまうから、その前に大好きな雨の下で死のうと思って」
雨の中伸ばされた腕は白く、彫刻のようだった。顔の彫りも深く芸術のようである。
「だから、死ぬんですか。もし彼女の方がアナタの事をまだ好きだったら、どうするんです!」
叫んだ後に近くにある、雨が当たりにくい商店街のガード下へと腕引っ張る事で連れ込めば、驚いたように目を大きく開けたものの、すぐに伏せて目線を逸らされる。
「……それはないよ。だって、お遊びだったらしいから」
それに、と彼は付け足した。
「私の恋人は男性だよ。叶う訳なんてないのにね」
あははは。と目許を押さえて喘ぎ声のような笑い声をあげている。目の前の相手は確実に男性なのに、この人は恋人を男と言った。それが不思議で、えっ、と零した言葉を聞いたのだろう、血が付いていない方の腕で頭をわさわさ撫でてくる。
「私は同性しか愛せないんだ。ふふ、気持ち悪いだろう?」
今以上に髪の毛が濡れて気持ち悪い、なんて思う前に今にも泣き出しそうな━━いや、もう泣いいるとしか思えない顔に釘付けであった。学校の先生をしているというのだから、少なくとも十は離れている筈の男なのに、酷く庇護欲をそそられる表情をしていた。
「別に……それは人の自由他ならない、ですよ。だから、そんな顔しないでください」
「それは君に悪い事をした。こんな、憂鬱な雨の日に、憂鬱な話なんて最悪だものね」
水が滴る髪の毛を掻き上げてた姿はまるで映画のワンシーンのようにも見えた。
「いえ、大丈夫です」
「……少し、気分が楽になったよ。君が構わないのならメルアドを頂けないかい? 今度改めて礼をしたい」
断るにも断りきれず、雨対策にとジップロックに突っ込んだ携帯を取り出して、電源をつける。
「別に構わないですが……。携帯、濡れて駄目になってはいませんか?」
「いや。いつも雨を見にふらふらしているものだからね、防水携帯にしているんだ」
通常の携帯より一回り大きいそれは水に濡れていても、画面は色鮮やかに待ち受けが見えた。
「じゃあ、赤外線で受信してくれるかな」
携帯と携帯の黒いポートを突き合わせば、画面に受信を完了しました、と文字が見える。表示された名前は「長谷堂」の一文字。どこかで見た名前だと思いつつ、そのアドレスに自分の名前だけ書いてメールを送る。
「やっぱり若い子は携帯、早いんだね。登録させて貰うよ、木幡さん」
不器用そうに携帯を押して、登録をしたようだ。なんだか申し訳なさそうに頭を掻いてごまかしている。
「こちらこそ、長谷堂さん」
「……もう暗くなってきたし、そんなにずぶ濡れじゃ風邪をひいてしまうから、早く帰った方がいいかも知れないね」
空を仰ぎ見て、長谷堂さんは呟いたかと思えば、埋め合わせは今度、と手をひらひらさせながら雨の中に消えていった。
傘を渡した方が良かったかもしれない、と思いつつ自分も帰る事にした。
長谷堂なんて聞いたら忘れなそうな名前だなぁ、と考えながら。