星の花 <初恋>
雨よ、降らないで。
そう強く願ったというのに、大粒のしずくがぽつぽつと、ふたりの上に落ちてきた。彼らが腰を下ろした芝生も、身に着けている衣服も、少しずつ湿り気を帯びていく。それでも肩をよせあって、いっしょうけんめい夜空を見上げていた。いつか雨がやみ、雨雲が消え去ることを願いながら。
それは、突然のことだった。この前学校で学んだばかりの、難しい言葉に言い換えるなら、「青天の霹靂」っていうやつ。とにかくサチは、ママから聞いた話が信じられなかった。
「ウソでしょ? 引っ越すって? ナオが?」 手に持っていた箸を、ぽろりと落としてしまった。
「お行儀悪いわねえ、六年生にもなって」ママがじろりとにらんだ。だけどサチには、食事のマナーなんてどうでもいいことだった。
「だって聞いてないもん! ナオ、引っ越すなんて言ってないもん!」思わず椅子から立ち上がった。
「でもねえ」ママはため息ついて、話をつづけた。「ママもびっくりしてるのよ。今朝、ナオミチ君のお母さんから聞いたばっかりで。十二年も一緒だったのにねえ。さびしくなるわあ」
びっくりしている割には、ママはのんびり夕飯を楽しんでるようだった。その様子を横目でじっと見ていたサチは、ふとある考えにたどり着いた。
(まさか、今までわたしにだけ、秘密にしてた……?)
そう気づくと悔しくなって、だんだん腹が立ってきた。
「行って来る!」椅子の背に掛けておいたパーカーを掴んで、袖に腕を通した。
「どこに?」ママは知らん顔で、お茶を飲んでいる。わかってるくせに、と思ったけど、一応答えた。「となり!」
サチはサンダルを突っ掛けて、家を飛び出した。
ナオミチの家の門前に来たものの、サチは呼び鈴を押そうとして迷った。彼に何て言おうか、考えてなかったからだ。どうしよう、と思って空を見上げたら、どんよりした雨雲が立ち込めていた。まるで自分の気持ちを映してるみたいだ。
(そういえば今夜は雨って、テレビでやってたっけ)
さっき見た天気予報を思い出した。
そのとき、玄関のドアが開く音がした。「サチ、入りなよ」ナオミチが立っていた。
「ナオ……」まさか本人がいきなり出迎えるとは、予想してなかった。サチは言葉が見つからなくて、うつむいた。
「サチ、どうした?」ナオミチは、心配そうにたずねた。
「どうしてわかったの? インターフォン押してないのに」
聞きたいことは他にあった。なのに口にしたのは、ぜんぜん別のことだった。さっきまでの勢いがウソのようだ。しかし、そんな複雑な乙女心をよそにして、ナオミチが突然「ぶはっ」と吹き出した。
サチはあぜんとした。彼はさらに大口開けて笑いだした。いつまで待っても、彼の笑い声がおさまらないので、サチは握りこぶしをつくった。
「なっ、なにがおかしいのよ!」真っ赤になって、両手を振り上げた。
「だって、だってさ、あんな大声で『行って来る!』とか、『となり!』とか言っただろ? 筒抜けだって」彼は、笑いをこらえて言った。
「ばか、ばか、ばかっ! 人の気も知らないで!」サチはナオミチに向かって、容赦なくこぶしを振り下ろした。涙で視界がにじんだ。「どうして言ってくれなかったの? どうして?」やっと言えた。でも、それ以上なにも言えなくて、両手で泣き顔を隠すしかなかった。
しばらくの沈黙のあと、ナオミチは静かに言った。「ごめん、サチ。聞いたんだ?」 サチは黙ってうなずいた。「内緒にするつもりなかったんだ。オレ、何回も言おうとしたんだ」
その言葉を聞いて、サチはますます悲しくなった。自分はまったく、気づいてなかったからだ。能天気もいいとこだった。ナオミチは、そんな彼女をなぐさめた。
「ほら、オレって弱虫だろ? サチだって知ってるじゃん。だから言えなかったんだ」彼はサチの両手をとって、顔を覗き込んだ。「だから泣くなよ、サチ。なっ?」
彼はにこっと笑った。
来週の引越しに備えて、あらかたの家具は梱包済みだった。もちろん見慣れたナオミチの部屋も、ほとんどからっぽだった。
「ごめんね、サチちゃん。急にこんなことになって」ナオミチのママが、二人分のコーラを運んできた。「赤ちゃんのときから、ずっと仲良しだったのにねえ。でも北海道なんて飛行機であっという間だから、遊びに来てよね」と、彼女はウインクした。
「あ、はい。おばさん、ありがとうございます」サチは、軽く頭を下げた。
「もう、出てってくんない?」ナオミチは、口をとがらせた。
「はいはい、邪魔者は出ていきますよ~」ナオミチのママは、妙な節をつけて歌いながら部屋を出ていった。
彼女がいなくなると、がらんとした広い部屋にふたりっきりになった。サチが彼の部屋を訪れたのは、ずいぶん久しぶりだった。小さいころは毎日のように遊んでいたが、六年生になった今では女の子友達と遊ぶほうが多かった。学校でもクラスが違うので、ナオミチと会話するのはまれだった。
「好き?」ナオミチがたずねた。
「はあ!?」唐突に質問されたので、サチはあせった。「な、なに言ってんの? 急に」頬が火照って熱くなる。
「なにって、コーラだよ。好きだろ、これ」ナオミチは、コーラが入ったコップをサチに差し出した。
(びっくりした、コーラか)
サチは勘違いしたことを彼に知られないように、そ知らぬ顔でコーラを受け取った。「ありがとう」
するとナオミチは、再びげらげらと笑い出した。「サチ、どきっとしただろ?」
「うるさいなあ、してないって!」 図星だった。だけど、サチはむきになって反論した。「そっちがちゃんと主語つかわないから! 変な言い方するからでしょ!」
「あっ、そうか。ごめんごめん。オレ、国語苦手だからさあ」ナオミチは、にやにやした。
彼に見透かされているような気がして、サチはなんとなく落ち着かなかった。そこで話題を変えようと、彼に質問した。「どうして、急に引っ越すことになったの?」
「大人の都合ってヤツさ」ナオミチは、あっさり答えた。
「大人の都合って?」
「離婚だよ。り・こ・ん!」
サチは、はっとしてナオミチの顔を見た。彼は平気な顔をしていたが、くちびるを噛みしめ、なにかをこらえてるようだった。「ごめん」サチは、謝るしかなかった。
「べつにいいよ、そんなこと」ナオミチは、ぐいっとコーラを飲んだ。
「そんなことって、そんなことじゃないよ」サチもコーラをひと口飲んだ。「大事だよ」と言って、ナオミチの顔を見た。彼もまたサチを見つめた。ナオミチの表情は固かった。サチは、彼から視線をはずせなかった。
「あれでもさ、泣いてたんだ」ナオミチは、ぽつりと言った。
「え?」
「見たんだ、泣いてるところ」彼は繰り返した。
「おばさんのこと?」サチは、たずねた。
「うん」ナオミチは、少し間をおいて言った。サチはどうしたらいいか、わからなかった。
「あのさ」ナオミチが口を開いた。
「なに?」
「どんなに好きでも、いつかは嫌いになるのかな?」ナオミチは、かすれた声で言った。
そう強く願ったというのに、大粒のしずくがぽつぽつと、ふたりの上に落ちてきた。彼らが腰を下ろした芝生も、身に着けている衣服も、少しずつ湿り気を帯びていく。それでも肩をよせあって、いっしょうけんめい夜空を見上げていた。いつか雨がやみ、雨雲が消え去ることを願いながら。
それは、突然のことだった。この前学校で学んだばかりの、難しい言葉に言い換えるなら、「青天の霹靂」っていうやつ。とにかくサチは、ママから聞いた話が信じられなかった。
「ウソでしょ? 引っ越すって? ナオが?」 手に持っていた箸を、ぽろりと落としてしまった。
「お行儀悪いわねえ、六年生にもなって」ママがじろりとにらんだ。だけどサチには、食事のマナーなんてどうでもいいことだった。
「だって聞いてないもん! ナオ、引っ越すなんて言ってないもん!」思わず椅子から立ち上がった。
「でもねえ」ママはため息ついて、話をつづけた。「ママもびっくりしてるのよ。今朝、ナオミチ君のお母さんから聞いたばっかりで。十二年も一緒だったのにねえ。さびしくなるわあ」
びっくりしている割には、ママはのんびり夕飯を楽しんでるようだった。その様子を横目でじっと見ていたサチは、ふとある考えにたどり着いた。
(まさか、今までわたしにだけ、秘密にしてた……?)
そう気づくと悔しくなって、だんだん腹が立ってきた。
「行って来る!」椅子の背に掛けておいたパーカーを掴んで、袖に腕を通した。
「どこに?」ママは知らん顔で、お茶を飲んでいる。わかってるくせに、と思ったけど、一応答えた。「となり!」
サチはサンダルを突っ掛けて、家を飛び出した。
ナオミチの家の門前に来たものの、サチは呼び鈴を押そうとして迷った。彼に何て言おうか、考えてなかったからだ。どうしよう、と思って空を見上げたら、どんよりした雨雲が立ち込めていた。まるで自分の気持ちを映してるみたいだ。
(そういえば今夜は雨って、テレビでやってたっけ)
さっき見た天気予報を思い出した。
そのとき、玄関のドアが開く音がした。「サチ、入りなよ」ナオミチが立っていた。
「ナオ……」まさか本人がいきなり出迎えるとは、予想してなかった。サチは言葉が見つからなくて、うつむいた。
「サチ、どうした?」ナオミチは、心配そうにたずねた。
「どうしてわかったの? インターフォン押してないのに」
聞きたいことは他にあった。なのに口にしたのは、ぜんぜん別のことだった。さっきまでの勢いがウソのようだ。しかし、そんな複雑な乙女心をよそにして、ナオミチが突然「ぶはっ」と吹き出した。
サチはあぜんとした。彼はさらに大口開けて笑いだした。いつまで待っても、彼の笑い声がおさまらないので、サチは握りこぶしをつくった。
「なっ、なにがおかしいのよ!」真っ赤になって、両手を振り上げた。
「だって、だってさ、あんな大声で『行って来る!』とか、『となり!』とか言っただろ? 筒抜けだって」彼は、笑いをこらえて言った。
「ばか、ばか、ばかっ! 人の気も知らないで!」サチはナオミチに向かって、容赦なくこぶしを振り下ろした。涙で視界がにじんだ。「どうして言ってくれなかったの? どうして?」やっと言えた。でも、それ以上なにも言えなくて、両手で泣き顔を隠すしかなかった。
しばらくの沈黙のあと、ナオミチは静かに言った。「ごめん、サチ。聞いたんだ?」 サチは黙ってうなずいた。「内緒にするつもりなかったんだ。オレ、何回も言おうとしたんだ」
その言葉を聞いて、サチはますます悲しくなった。自分はまったく、気づいてなかったからだ。能天気もいいとこだった。ナオミチは、そんな彼女をなぐさめた。
「ほら、オレって弱虫だろ? サチだって知ってるじゃん。だから言えなかったんだ」彼はサチの両手をとって、顔を覗き込んだ。「だから泣くなよ、サチ。なっ?」
彼はにこっと笑った。
来週の引越しに備えて、あらかたの家具は梱包済みだった。もちろん見慣れたナオミチの部屋も、ほとんどからっぽだった。
「ごめんね、サチちゃん。急にこんなことになって」ナオミチのママが、二人分のコーラを運んできた。「赤ちゃんのときから、ずっと仲良しだったのにねえ。でも北海道なんて飛行機であっという間だから、遊びに来てよね」と、彼女はウインクした。
「あ、はい。おばさん、ありがとうございます」サチは、軽く頭を下げた。
「もう、出てってくんない?」ナオミチは、口をとがらせた。
「はいはい、邪魔者は出ていきますよ~」ナオミチのママは、妙な節をつけて歌いながら部屋を出ていった。
彼女がいなくなると、がらんとした広い部屋にふたりっきりになった。サチが彼の部屋を訪れたのは、ずいぶん久しぶりだった。小さいころは毎日のように遊んでいたが、六年生になった今では女の子友達と遊ぶほうが多かった。学校でもクラスが違うので、ナオミチと会話するのはまれだった。
「好き?」ナオミチがたずねた。
「はあ!?」唐突に質問されたので、サチはあせった。「な、なに言ってんの? 急に」頬が火照って熱くなる。
「なにって、コーラだよ。好きだろ、これ」ナオミチは、コーラが入ったコップをサチに差し出した。
(びっくりした、コーラか)
サチは勘違いしたことを彼に知られないように、そ知らぬ顔でコーラを受け取った。「ありがとう」
するとナオミチは、再びげらげらと笑い出した。「サチ、どきっとしただろ?」
「うるさいなあ、してないって!」 図星だった。だけど、サチはむきになって反論した。「そっちがちゃんと主語つかわないから! 変な言い方するからでしょ!」
「あっ、そうか。ごめんごめん。オレ、国語苦手だからさあ」ナオミチは、にやにやした。
彼に見透かされているような気がして、サチはなんとなく落ち着かなかった。そこで話題を変えようと、彼に質問した。「どうして、急に引っ越すことになったの?」
「大人の都合ってヤツさ」ナオミチは、あっさり答えた。
「大人の都合って?」
「離婚だよ。り・こ・ん!」
サチは、はっとしてナオミチの顔を見た。彼は平気な顔をしていたが、くちびるを噛みしめ、なにかをこらえてるようだった。「ごめん」サチは、謝るしかなかった。
「べつにいいよ、そんなこと」ナオミチは、ぐいっとコーラを飲んだ。
「そんなことって、そんなことじゃないよ」サチもコーラをひと口飲んだ。「大事だよ」と言って、ナオミチの顔を見た。彼もまたサチを見つめた。ナオミチの表情は固かった。サチは、彼から視線をはずせなかった。
「あれでもさ、泣いてたんだ」ナオミチは、ぽつりと言った。
「え?」
「見たんだ、泣いてるところ」彼は繰り返した。
「おばさんのこと?」サチは、たずねた。
「うん」ナオミチは、少し間をおいて言った。サチはどうしたらいいか、わからなかった。
「あのさ」ナオミチが口を開いた。
「なに?」
「どんなに好きでも、いつかは嫌いになるのかな?」ナオミチは、かすれた声で言った。