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そこにあいつはいた。

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 突然、脇の下が力強く支えられたかと思うと体が宙に浮き、足が床から離れて視界が一気に広がり、流れ、そのまま二メートルほど空中遊泳して、すとんと庭に下ろされた。
 一瞬だったけれど、まるで遊園地の乗り物にでも乗っているような感覚に胸が躍った、その時。
 
――唐突に、分かった。 

 爽やかな秋風と眩しい日差しを体中で感じつつ、やけに低い目線で草ぼうぼうの庭を眺めながら、何だか知らないけど俺は、頭の芯がジンジン痺れて、喉元は熱く強ばって、視界はぼやけてきて、脈が異様に速くなって、心臓が握りつぶされるみたいで、苦しくて。 

 伸び放題の草や木々を映していた神無の視界が、突然くるりと反転した。
 何かを捜すように移動していた視界が、縁側に腰掛けて庭を眺めている俺の姿を中央に捉えた途端、そこでぴたりと停止する。
 何を考えているのか、神無が見ていることにも全く気づかない様子で、庭の中程を見つめたままぼんやりと口を半開きにしている、俺。
 かなり長い間、神無の視界はそんな俺を中央に捉え続けたまま動かなかった。

――神無は、

 よそ見をしていたせいで足を取られたのだろう、突然視界がグラリと揺れ、葉擦れの音とともに視界全てが緑の葉で埋まった。手足を動かそうとするが、草に絡まってうまく身動きが取れない。
 四肢を無意味に突っぱねながら、視界に映る緑の葉が、ぼんやりと滲み、歪んだ時。 
『何やってんだ、全く……』
 呆れたような声とともに、誰かの足音がこちらに近づいてくるのを感じた途端、滲んだ視界は数回の瞬きとともにクリアに修正され、足音の主を待つかのように、無闇に動いていた手足が止まる。

――俺と、

 大げさな音とともに開け放たれた建て付けの悪い窓ガラスの向こうは、眩しい日差しに溢れていた。身を潜めている雨戸の影から、怖ず怖ずと首を伸ばして光の世界を覗き見ていると、頭の上から声がした。
『いいよ、神無』
 見上げると、飯田さながらのホラー顔を左右非対称に引きつらせつつ、必死で笑顔を作る俺の顔が映り込んだ。
『だいぶ体調良くなったから。少しくらいなら、外に出ていいよ』
 蒼白なままつかつかと歩み寄ってきた俺に軽々と抱き上げられ、温かな日差し溢れるベランダにひょいと出される。
『いいってば、神無』
 逡巡しているのだろう、神無の視界は、見るからに具合の悪そうな顔色で、それでもギリギリ笑顔めいた表情を浮かべている俺を、中央に捉えたまま動かない。
『使えって。大丈夫だよ、少しくらい使っても』
 唐突に、目の前に俺の右手が差し出された。
 それは思いの外ゴツゴツしていて、肉厚な手のひらがやけに温かそうで、意外なほど大きく感じられて。
 怖ず怖ずと差し出された神無の、紅葉のように小さな右手と比べると、それは一層顕著で。
 その刹那、俺の手を掴むべきか否か迷うように中空を彷徨っていた小さな右手を、その大きな手が包み込むように握りしめた。
 俺と神無が繋がり合った、瞬間。
 温かな感覚が、
 幸せな思いが、
 爪先から頭頂まで一気に駆け抜け、全身に満ちる。


 その時、俺はようやく理解した。
 神無の気持ちを。

 神無は、俺に会いたかったんだ。 
 会って、触れ合って、


――繋がりたかったんだ。 


 こんな俺を、必要としてくれていたんだ。

☆☆☆

 暗黒の空間で、俺の向かいにちんまりと座って、その小さな両手で俺の右手を包みこみ、心持ち右に小首を傾げたまま、神無はじっと俺を見ている。
 口の端をほんの少しだけ引き上げて、微かに笑っているような、優しい表情を浮かべながら。
 でも、その姿はまるで、雨粒が叩きつけられる窓から眺める風景の如く、滲み、歪んで、あまりはっきりとは見えない。
 見てやりたいんだけどな、止まらねえんだよ、目から勝手に湧き出てきやがる水分が。
 鼻水を思いっきりすすり上げ、左腕で力一杯目元を擦って、滲んでぼやけた視界のまま神無ににっと笑いかける。
「ありがとな、神無」
 神無はどこかキョトンとした表情を浮かべながら、首を右に傾けた。
「これでもう、思い残すことはねえよ」
 首を傾げたまま、両手で包んでいる俺の手に目線を落とす。
「行こう、神無。お前の世界にさ」
 聞いているのかいないのか、どこか手持ち無沙汰そうに、小さな白い指先で節くれ立った俺の指を弄び始める。
「辛くも、悲しくも、寒くもないところへさ……」
【寒クナイ】
 唐突に頭に響き渡ったその言葉に、俺の思考は寸刻完全にフリーズした。
 ぼやけた視界を晴らそうと二,三度瞬きを繰り返し、それから怖ず怖ずと神無の表情を窺い見る。
 俺の指を弄んでいる神無の表情は、俯き加減なので良くは分からなかったが、どこか満足げに微笑んでいるように見えた。
「寒くないって、お前……」
 神無は顔を上げ、真っ直ぐに俺を見て、大きな瞳を糸のように細めてにっこりと笑った。
 何を言ったらいいのか分からなくなって、金魚みたいに口をぱくぱくさせている俺に向かって、神無は両腕を一杯に伸ばして、何をか催促するかのようにもう一度にっこり笑ってみせる。
 その腕が欲していることをしてやろうと思って、でも、神無に向かって差し伸べた両手がブルブルと震えていることに気づいて、一瞬躊躇して中空で停止した俺の手を見て、神無は両腕を思いっきり差し伸べたまま、まるで念押しするかのようにもう一度、満面の笑顔でこの言葉を繰り返した。
【寒クナイ】
 胸底から突き上げてくる怒濤のような感情の奔流に、勝手に涙は溢れ、鼻水は流れ、顔なんかもうぐちゃぐちゃで、正直何が何だか分からない状態のまま、

 それでも俺は、力いっぱい抱き締めたんだ。


 世界で一番愛おしい、俺の娘を。