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そこにあいつはいた。

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 壊れたテレビから発せられるノイズに似た音に混じって、遠くから微かに響く誰かの声が俺の耳朶を掠めた。
『草薙さん、しっかりして! 今、救急車呼んだからね。旦那さんにも連絡したから』
『……い』
『え? 何? 痛いの?』
『寒い……』
『寒い?』
『寒い。寒いの……お願い、あの子が、寒いって……』
『しっかりして、草薙さん……すいません、毛布か何かもらえませんか? 出血が多いから、貧血になってるんです、多分』
『寒い……寒いよぉ』

――葉月!

 引き込まれまいと必死で足を突っ張り、フワフワの壁面にしがみつきながら、俺は初めて自覚していた。
 俺に、決定的に足りなかったもの。

 あの子の思いによりそう気持ち。
 そして、葉月(あいつ)の思いによりそう気持ち。

 ほら、感じてみろよ。

 あんなに気持ちよくて、フワフワで、暖かくて、
 あんなに幸せだったのに。
 何にも悪いことなんかしていないのに。
 ただ、気がついたらそこにいて、そこが幸せで、ずっといたいって思ってたのに。
 パパとママが大好きだったのに。
 無理矢理引き剥がされて、吸い取られて、へその緒が切れれば呼吸だってできなくなって。
 理不尽に命を絶たれて。
 パパとママに会うこともできなくて。

 そして、葉月。

 葉月のせいじゃない。
 そんなこと、最初から分かりきってる。
 だから俺は、敢えてそのことを口には出さなかった。
 ていうか、何て声をかけていいのか分からなかった。
 そりゃ、分からないよな。
 だってその時は、この子に対する思いの深さが、全然足りなかったんだもんな、俺。
 だけど、葉月は母親だから。
 四ヶ月間、毎日この子と一緒にいたから。
 この子の重みを感じて、時折動きを感じて、きっとその思いも感じて、
 葉月は、俺なんかより遙かに、この子の思いに寄り添ってたんだ。

 へその緒が切れたのだろう、突如真空地帯に放り込まれたかのように呼吸ができなくなり、
 吹き荒ぶ寒風に体中が痺れ、刺すような痛みと凄まじい圧迫感に四方から襲われ、
 あの子の悲しみと痛みを、全身で受け止めながら、
 涙と鼻水でグシャグシャの顔もそのままに、俺は凍りつくような風が吹き抜ける暗黒の空間に飲み込まれていった。