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そこにあいつはいた。

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其の二十七.ほら、感じてみろよ。


 見渡す限りの、ピンク色。
 気がつくと俺は、一面の、ふんわりとした優しいピンク色の霧に包まれて、そこに一人立ち尽くしていた。
 ピンク色の霧以外は、何も見えない。
 煙の匂いも、炎の熱も感じられず、崩れ落ちる柱の音も聞こえない。
 ……いや、何か聞こえる。
 よくよく気をつけて耳を澄ますと、うまく受信できていないテレビから流れるノイズに似た音が、一定間隔でリズミカルに満ち引きを繰り返しているのが分かる。
 それにしてもぽかぽかして、眠くなるほど温かい。
 足が触れている面はフワフワと信じられないほど柔らかく、思わず背を預けた壁面も、まるでふかふかのスポンジケーキのようで、甘く優しい香りまで漂ってきそうな雰囲気だ。
 全身の力を抜いて体重を壁に預けると、宇宙遊泳でもしているかのようにふんわりと受け止められる感覚を得、あまりの心地よさに何もかも忘れてしまいそうになる。
 
――いったい、ここはどこなんだろう。

 煙に巻かれて、有毒ガスを吸って、意識でも失っているんだろうか。
 それとも既に、死んでしまったんだろうか。

――葉月は?

 唐突に思い出したその名前に勢いよく跳ね起きた途端、前面一帯をふんわりと覆うピンクのフカフカに顔が埋まり、弾き返された勢いで今度は後頭部が背面のフカフカに埋まった。
 どうやら、自分がいるこの空間はかなり狭いところらしい。ほんの少し体を動かしただけで、すぐにフカフカの壁に弾き返されてしまう。まあ、フカフカなので、痛いとか怪我をするとかいうことはないのだが、体の自由はかなりきかない。
 とにかく、この訳の分からない空間から外に出なければ。その方法についてあれこれ思いを巡らせ始めた、その時だった。
『ねえ、動いた!』
 
――え?

 ピンク色の壁面全体から染み出すように響き渡った、ややくぐもった女性のものと思われる声。どこかで聞き覚えのあるあの声は、もしかして……。
 ある予感にとらわれて思考と身体機能が停止した俺の耳に、やはりどこか耳慣れた、男のものと思われる声が届く。
『え? マジ?』
『うん、多分……。でも、ちょっと早いかな? まだ四ヶ月だもんね。気のせいかも』
『いやいや、分からねえぞ。ちょっと俺にかしてみ?』
 耳を添わせて聞いてでもいるのだろうか、しばしの、無音。
 まるでかくれんぼでもしているかのような緊張感に襲われつつ、動きを止め、息を詰めてその無音と対峙する。
『……眠っちゃったかな』
『ゴメンね、やっぱ気のせいだよ』
『いやいや、そんなことねえよ』
 やけに確信に満ちた口調で男が言うと、ピンクの部屋全体に、周囲を撫でさすっているのだろうか、そよ風に揺れる木の葉がたてるような音が、サワサワと心地よく響き渡った。
『俺たちが大騒ぎしてるんで、びっくりして息潜めてるんだよ、きっと』
『やっぱ、女の子なのかなあ、健一が言うとおり』
『決まってるだろ、そんなこと』
『ほんと、健一は女の子オンリーだよね。でもさ、もし違ってたらどうすんの? この子が男の子だったら……』
『それはそれで嬉しいの。俺、男の子も欲しいもん』
『え? 何それ。意味分かんない』
 どこか楽しげな女の声に、嬉しそうに応える男の声。
『どっちでもいいんだよ、要するに。ただ、もし女の子だったら嬉しさ倍増なだけ』
 この会話。
 覚えてはいないけど、多分、こんなこともあっただろうと思う。
 俺と、葉月の会話。
 まだ破綻する前の、一番幸せな頃の、俺たちの会話。
 
――と、いうことは、ここは……。

 背筋を駆け上がる戦慄めいた感覚に、思わず身を震わせて息を呑む。
 慌てて辺りを見回してみるも、赤ん坊の姿は、ない。

――どういうことなんだ?

『チビちゃん、パパがあんなこと言ってますよぉ。ママはどっちでも同じくらい嬉しいからね』
『な……何言ってんだよ。どっちだって同じくらい嬉しいに決まってるだろ』
『でもさっき、倍増とか言ってたもんねぇ』
『言葉の綾だ、言葉の……な、お前は分かってるよな。パパはどっちだって嬉しいんだからな……あ、葉月、時計見ろ。お前、もう行かないとやばいぞ』
『……あ、ほんとだ。健一、できたらお掃除……』
『分かった、やっとくから。あんまり急いで転ぶなよ。あと、今日もかなり寒いからな。腹冷やすなよ』
『ありがと。じゃ、行ってきます』
 扉が開閉する重い音が響き、軽い足音とともにピンクの壁面全体がゆったりと揺れ、俺の体はその中で浮遊しながらゆっくりと回転した。
『寒いねえ、チビちゃん』
 囁くような声と、先刻のサワサワというが、優しく耳を擽る。
『今夜は雪が降るって言ってたよ。暖かくしてようね』

 これは、あの子の見ていた世界だ。

 ピンク色の世界で緩やかに回転しながら、俺はそう確信した。
 いったい何故、どうしてこんな所に来たのか、何より、今煙に巻かれているはずの葉月はどうなったのか。
 気になることは山のようにある。でも、今はこれを見なければならない、そんな気がした。
 感じとらなければならない、この子の思いを。
 周囲を取り巻くピンク色の壁面がふんわりと優しく色づいて、温かな風……実際に風は吹いていないのだが、そんな感覚……が、優しく頬を撫で、何とも言えない喜びと、安心感と、そして、表現のつかない幸せな思いが怒濤のように足下から突き上げてくるのを感じながら、目を閉じ四肢の力を抜いて、柔らかな壁面にゆったりと身を預ける。

 ああ。
 この子は幸せなんだ。
 温かくて、優しくて、嬉しくて。
 何一つ心配がなくて。
 そして。

 閉じていた目をゆっくりと開いて優しい色に染まる壁面を見つめながら、全身を包むその感覚に身を委ね、

 そして、この子は。

 言葉ではなく、胸の底から沸き上がってくる思いそのものが、俺にその感情を理解させる。

 この子は、大好きなんだ。 
 パパとママが、大好きなんだ。

 ピンク色の視界がぼんやり霞み、生温かい湿りが頬を滑り落ちていくのを感じて、慌ててゴシゴシ目元を擦った、その時だった。
 突然、周囲を取り巻くピンクの世界全体が、ペンキをぶちまけたかのような鮮烈な赤に染まったのだ。

――え?!

 周囲は大地震に見舞われたかの如く激しく鳴動し始め、身も凍るような風が吹き荒ぶ。
 慌てて首を巡らせてみると、頭上の空間が一部パックリと裂け、それがまるでブラックホールの如く、ピンク色の空間にある全てのものを凄まじい勢いで吸引しているのだ。
 深紅の空間が歪み、捻れ、次々に穴に吸い込まれていく。
 周囲の温度はみるみる低下し、常夏の沖縄から一気に猛吹雪の最中に放り出されたような錯覚に陥る。
 そして、徐々に俺の体も、どす黒いブラックホールの入口に引き寄せられていく。
 突然何が起きたのか、あれが一体何なのか全く分からなかったが、ただ一つ、吸い込まれたら終わりだということだけは分かった。
 嫌だ!
 嫌だ嫌だ嫌だ!
 猛烈な寒さと圧倒的な恐怖に心臓までも凍りつきそうになりながら、必死で柔らかい壁を掴み、足を突っ張って吸引に耐えていた、その時。