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そこにあいつはいた。

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其の二十六.俺はやっぱり死ねないんだ。


 濃厚な煙が充満し尽くして、既にこの部屋が四畳半という広さだということすら分からない。ぎっしりとワタを詰め込まれたかの如くたちこめる白い煙に視界を阻まれ、一メートルも離れれば見えるものなど何もない。現に、すぐそばにいるはずの葉月でさえ、その姿は影すら視認できない。
 俺とそいつの間にも一分の隙無く白煙が立ちこめ、一メートル五十センチ足らずという至近距離で相対しているにも拘わらず、豆粒が五つずつ行儀良く並んだふくふくの爪先以外、その姿は全くと言っていいほど見えなかった。

 でも、これは確かにあいつなんだ。

「……何のマネだ、神無」
 未だにジンジン痺れている右手をさすりつつ、小さな爪先をにらみ据えながら、地を這うが如き声で威嚇する。
「どうして邪魔するんだ」
 緩やかに対流する煙の向こうで、神無は数刻じっと黙っていたが、やがて行儀良く並んだ小さな指先たちが、一瞬キュッと縮こまった。
「一緒にいて欲しいのかもしんねえけど、今、この家は燃えてる。物の怪のお前はよくても、俺も、葉月も死んじまう。悪いけど、行かせてもらうからな」
 言い捨てるや、引き手を両手で掴んで思い切り横に引く。
 その刹那、煙の壁を切り裂いて迸った赤い輝きが俺の両手を包み込み、猛烈な熱感と突き刺すような痛みに、思わず小さく叫んで引き手から手を振りほどいた。 
 ゆるゆると振り返り、煙の向こうを透かし見るも、厚い煙のカーテンの向こうに見えるものなど何もなく、畳の上に辛うじて小さな足の指だけが、行儀良く五つずつ並んでへばり付いているのが見えるだけだ。
 自分たちをここから逃がさない神無の意図をまざまざと感じ取り、冷たい汗が一筋背筋を流れ落ちていくのを感じながら、心なしか震える声で問うてみる。 
「神無、お前……もしかして」
 迫り来る熱気と煙でカラカラの喉を潤そうと、絞り出した唾液を無理矢理流し込んでみるものの、粘つく唾液はのどちんこに絡みついただけで、喉の奥まで達することなく消えた。 
「この火事……お前が?」
 神無の答えはない。
 濃厚な煙に視界を阻まれその姿は全く見えないが、そこに立っているであろう神無が、身じろぎ一つせずまっすぐに俺を見ている気配をひしひしと感じる。じゃまくさい煙どもを掃除機か何かで一気に吸い取ってしまいたいような衝動に駆られつつ、俺もふくふくの足先に正面から対峙した。
「どうして……」
 言いかけて、口を噤む。

 そんなこと、聞くまでもないだろう。
 いきなりあんなに酷いことをされて、怒らない方がおかしい。

「そっか……そうだよな」
 聞こうとした自分自身が滑稽で、ヘンな笑いが口の端に浮かんだ。
「お前は何の悪気もなかったのに、いきなり消されそうになって、しかも助けてくれるはずの俺も役に立たなくて、ある意味見殺しみたいになっちまったわけだから、怒るのも無理ねえよな」
 相変わらず、厚い煙の向こうにいる神無の姿は爪先以外全く見えない。
 だが俺は、そこに立っているであろう神無に向かって居住まいを正すと、膝に額がつく勢いで思い切り頭を下げた。
「ゴメン、神無……許してくれ」
 リアクションは皆無。
 だが、もともと神無の反応は期待していなかったので、自分の太股を見ながら独り言のように言葉を継ぐ。
「もともと、全部俺がいけなかった。一人でいることに耐えられなくて、お前が一緒にいてくれることが嬉しくて、お前は離れようとしてくれていたのに、俺がお前をある意味たきつけたんだ。あの時は、別にどうでもいいと思ってた。お前にエネルギー取られて、たとえ死んでも別に構わないと思ってた」
 上半身を起こし、爪先の上方にあるだろう神無の顔の辺りを真っ直ぐに見る。
「でも、ゴメン。俺はやっぱり死ねないんだ」
 緩やかに対流する厚い煙の向こう側は、微塵の動きなく静まりかえっている。
「俺は、生きたい。こいつ……葉月と、もう一度やり直したい」
 相変わらず神無の反応はない。だんだん、何に向かって喋っているんだか分からなくなってきた。
「お前が葉月とそっくりだって気づいた時、初めて分かったんだ。諦めたつもりだったけど、俺はやっぱり葉月を求めてた。葉月と作る、家庭を求めてた」
 喋ってるうちに何だか独白めいてきて、目頭がじんわり熱くなってくる。まずい。まずいけど、止められない。
「俺、ほんとは今頃、オヤジになってるはずだった。なりたかったんだ、お前みたいな女の子のオヤジに。もちろん、男の子だって何だって、無事に生まれてくれればそれでよかった。葉月ともう一度やり直して、俺はあの子に会いたいんだ。俺たちの子どもになる、あの子に……」
 ふと、何か違和感を感じた気がして、言いかけた言葉を飲み込んだ。

――あの子?

『お水とかも、ちゃんとあげててくれた?』

 次の瞬間、脳裏を過ぎった葉月の言葉に、胸を激しく突かれたような衝撃を覚え、呼吸を忘れて立ち竦む。
 
 そうだ。
 さっき葉月がハンカチにくるんでいた、小さな位牌。
 俺はあいつを忘れていた。
 思い出しもしなかった。
 だから、何もしてやらなかった。
 水を供えてやることも、線香一本手向けてやることも、仏壇の扉を開けてやることすら。
 だからあの時、葉月の言葉を聞いても、何のことを言っているのか分からなかったんだ。

「……そうか」
 口の端が左右非対称に引きつり上がり、自嘲めいた笑みが浮かんでくる。
「俺、もの凄く大事なこと忘れてたな」

 全くもってバカすぎる。
 周囲を取り巻く煙の渦も、次第に上がっていく室温も、酸素不足でガンガンする頭も、
 自分のバカさ加減に比べたら、そんなもん屁でもない。

「最低のオヤジだな、俺。だから葉月にも愛想尽かされたんだ。自分に直接関わるリアルに振り回されて、いっぱいいっぱいになって、イライラしてあたり散らして、約束は守れねえし、思いやりもねえし、挙げ句の果てはあの子のこと、今の今までまるっきり頭になかったんだから……」

 葉月が怒るのも、至極当然だ。
 こんなバカオヤジ、愛想尽かされても文句は言えない。

 喉の辺りが勝手に強ばって、痙攣して、視界が滲んできて、ズルズル鼻水が垂れてきて。
 何とか唾を飲み込んで呼吸を整え、情けない顔を上げて煙の向こうを見据え、掠れて裏返った声を絞り出す。 
「それでも、俺は生きたい」
 刻一刻と濃さを増し、まるで生き物のようにゆっくりと渦巻き蠢く煙。何かが弾けるぱちぱちという音と、焼け落ちた柱が崩れ落ちる轟音が、どこか遠くで響いている。
「生きて、やり直したいんだ。俺と葉月の生活を。そうして、もう一度オヤジをやり直す。俺と葉月の間に産まれてくる、あの子のために。……だから、神無」
 顔は神無の方に向けたままそろそろと後方に右手を伸ばし、窓の引き手に添える。
「俺を……許してくれ!」
 引き手を掴む右手に全体重をかけた、瞬間。
 何の抵抗もなく横に滑った窓と窓枠の間から、目も眩むほどの光が迸り、
 呼吸も覚束ないほどの風が一気に流れ込み、部屋一杯に充ち満ちていた煙が渦を巻いて流れ出し、
 俺は思わず腕で顔を覆って、風に押し倒されないように両足を踏ん張って、
 
 気がつくと、