そこにあいつはいた。
其の六.洋服で、我慢してもらえないかな。
買い物のあと地下街の牛丼屋で夕食を済ませて、訳もなく夜の新宿を徘徊して、恐る恐る暗闇に沈む門扉をくぐったのは、日付が変わる寸前だった。
得体の知れないものが潜んでいる家に滞在する時間を少しでも減らそうというささやかな抵抗だったのだが、昨夜殆ど眠れていない体がさすがに休息を求めてきしみ始めたので、仕方なく覚悟を決めたという訳だ。
油の切れたちょうつがいが軋まないようそろそろと玄関扉を開け、首だけ差し入れて中を覗く。
墨色に染め上げられ、しんと静まりかえった家の冷たく湿った空気が、差し入れた首に重くのしかかってくる。
慌てて玄関の電気を点け、靴を脱いで廊下の電気を点け、通り過ぎる際客間の電気を点け、三畳間の電気を点け、通勤カバンを置いて台所の電気を点け、洗面所の電気を点けて手を洗い、階段の電気を点けて上がり、物置にしている三畳間の明かりを点け、とにかく家中を煌々と照らしてから、最後に俺は例の押し入れの前に立った。
右手には、先ほど買ってきたワンピースの包み。
すっかりプレゼント用だと思いこんでいた店員さんは、ワンピースをご丁寧におしゃれな包装紙でくるみ、さらにキラキラのリボンを花結びにし、端をハサミでしごいてくるくるにして、だめ押しにメッセージカードまでつけて渡してくれた。一応「お入り用ですか?」と聞いてはくれたのだが、何か断ってはいけないような圧迫感を覚えた俺は、要らないと言うことができなかった。
空白のメッセージカードをポケットに投げ込むと、襖の前で呼吸を整える。
昨日あれだけはっきりとその姿を見ている訳だから、ある程度覚悟はできている……つもりだったが、いざ襖の前に立ってみると、のっぺりとした白い唐紙がまるで眼前に迫ってくるような気がして、思わず一歩後退ってしまった。
「情けねえ……しっかりしろ!」
思わず小声で呟くと、平手で頬を思いっきり叩く。乾いた音が響くと同時に、左頬全体にじんわりと痛覚が広がっていく。
――とにかく、中にいるのはあの娘。考えようによっては目の保養になる。生であんなもの見られる機会なんて多分この先一生ないに違いない。楽しめ! この状況を、楽しむんだ!
かなり無理矢理そう言い聞かせ、幾分気持ちが楽になった俺は、もう一度ゆっくりと部屋の空気を吸って吐き、震える左手を差し伸べて電灯のスイッチを押した。
途端に部屋は墨をぶちまけたような暗闇に包まれる。
暗闇に目が馴染んでいないため殆ど何も見えない状態のまま、俺は襖の取っ手を手探りで捜し、そのまま動きを止めずに思い切り横に引いた。
ぽっかりと口を開く、暗黒の空間。
俺は瞬きも呼吸も停止したまま、その空間に目を凝らす。
――いない?
白っぽい襖と煤けた壁に挟まれた真っ暗な四角い空間には、消炭色に染まった平べったい夏がけが見えるだけだ。
慌てて押入に首を突っ込んで反対側を覗いたが、そこにはぎっしりと客用布団が詰め込まれ、少女が入り込む隙などとてもありそうになかった。
張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと途切れ、俺はふぬけのように口を半分開けたまま、押入に突っ込んでいた首をゆるゆると引っこ抜いて息をついた。
数刻そのまま呆然と押入の隅に目を向けていたが、そのうちに何だか腹の底から変な笑いがこみ上げてきた。
――何考えてたんだ、俺。
座敷童子なんかいないんだ。昨日のあれは幻覚。俺も、多分飯田もここんとこおあずけで欲求不満が溜まってたから、二人同時にあんな幻覚を見たに違いない。よしんばいたとしても、きっと霊感の強い飯田について行ったんだ。そうに違いない。
俯いて肩を震わせながらしばらく声を殺して笑っていたが、ようやくその笑いが収まると片頬引き吊り上げたまま肩を竦め、それから右手にさげたワンピースの包みを見て苦笑混じりのため息を一つつき、部屋を出ようと踵を返して電気を点けていないことを思い出し、スイッチに左手を伸ばした。
その時、何気なく首を巡らせた俺の視界に奇妙なものが映り込み、よどみない一連の動きが、一時停止ボタンを押された映像の如く急停止する。
俺は瞬きも呼吸もストップして、その奇妙なものを凝視した。
押入の反対側、外灯の光が透けてぼんやりと薄明るく浮かび上がる煤けたカーテンの裾近くに、その奇妙なものは膝を抱えるような格好で、窓に対して横向きに座っていた。
俺の視線に気づいたのだろうか、その奇妙なものはゆっくりと首を巡らせて俺の方に顔を向けた。肩の辺りでぱっつりと切られた黒髪が、動きに伴って微かに揺れる。
真っ直ぐに俺を見つめる、そいつのくりっとした大きな目。
――座敷、……童子?
ごくりと喉をならし、粘つく唾液を胃に流し込む。
そいつは、例によって素っ裸だった。おかっぱ頭の下に続く白い肩も、緩やかな曲線を描く背中も、冷たい床にちょこんと載せられている腰も、両手に抱えられている足も、窓から差し込む外灯の光に側面から照らされて少々黒ずんではいるものの、白く柔らかな肌は僅かな光を反射して艶やかに光っている。
だが、俺は自分の台詞に、疑問符を添えざるを得ない。
そいつの姿は、昨日見たあの艶めかしい少女の姿ではなく、どうみても学齢期以前の、幼児という言葉がピッタリな姿だったからだ。
子どもらしくふっくらとして丸みを帯びた頬と、米粒でさえ縦にしないと入らなそうな口。短い腕の先にある手のひらはまさに紅葉そのもので、抱えられた膝に密着している腹はまん丸く膨らみ、ふくふくした足を抱えるのもやっとといった雰囲気だ。
座敷童子というイメージには却ってこの姿の方が相応といえば相応なのだが、だったらあの少女は一体どこに行ってしまったというのか。それとも、こいつはあの少女と同一なのだろうか。若しくは、あの少女とこの子どもは兄弟で、両親は高齢の爺と婆を養うために必死で働くも力及ばず、泣く泣くこの兄弟を俺の家によこし、着る物や食べる物を供えてもらおうという算段なのだろうか。
フリーズしたまま酷使され続けた脳髄から白煙が立ち上り始めたらしく、訳の分からない思考のどつぼにはまりながらも、左手を電灯のスイッチに伸ばして固まったまま俺はそいつを見続けていた。
そいつは透き通るような眼差しでじっと俺を見つめたまま、表情も目線も動かさない。
動けないまま数刻視線を重ね合わせていた俺は、そいつの視線が俺の顔からは幾分ずれた辺りを見つめていることに気づいた。
辛うじて動く眼球をその視線に沿わせてみると、それは俺の右手の先に注がれている。
「……これ?」
怖ず怖ずと紙袋を差し上げて表情を窺い見ると、そいつは首だけ俺の方に向けた姿勢のまま、ほんの僅か頬を引き上げて表情を緩めた。
「こ、これ、……お前に供えようと思って買ったんだけど……」
くりんとした大きな目で俺を見つめたまま、そいつはじっと黙っている。
「着物を買おうかと思ったんだけど、本人を連れて行かないと買えないって言われて……よく考えたら俺、着付けもできないし……洋服で、我慢してもらえないかな」
やっとの事でそれだけ言うと、必死で片頬を引き上げ歪んだ笑みを浮かべてみせた。
作品名:そこにあいつはいた。 作家名:だいたさん