そこにあいつはいた。
其の一．何かいる。
破れかけの襖の奥に詰め込まれた、カビ臭い布団の山。ここ数日めっきり冷え込んできた朝晩の空気に耐えきれず、昨夜そこから半年ぶりに掛け布団を引っ張り出した。
下の方から無理矢理引っ張り出したから、つられてはみ出た布団に引っかかって襖が閉まらなくなってしまった。もう日付も変わっていたし、何だか酷く疲れていたから、明日の朝片付けるつもりで俺はそのまま寝たんだ。
夜中、嫌な夢で目が覚めた。
ダムに墜ちる夢。
ダムのてっぺんから墜ちた俺が、絶叫マシン並の落下速度で水面に激突し、そのまま魚かき分けて水底まで突進して、底を突き抜けて出たところは俺んちの古くさいフロだった。
風呂桶からぬっくと顔出したら死んだ母ちゃんがフロ掃除してて、驚く素振りもなく涼しい顔で「あら、おかえり」なんてのたまいやがる。訳分からんが、まあとにかくそこで目が覚めた。
ふざけた夢とはいえ結構怖かったらしく、脈は速えし、背中は汗が冷えて寒いし、結構しっかり覚醒してるし、小便もいきたかったから、取り敢えず時間を確認しようと起き上がって柱時計を見上げた。
手巻き式の柱時計の針は、夜中の三時をさしている。
コチコチと几帳面な音を刻みながら冷静に嫌な時間を示しやがる時計に八つ当たり的な憤懣を振り向けつつ、俺の目線はその流れで何となく目の前の押し入れに向いた。
そのまま移動するはずだった視線が、まるで吸い付けられたかのようにそこで停止する。
何かいる。
通りを照らす街路灯の白っぽい光が遮光カーテンの隙間から差し込み、部屋はぼんやりと薄墨色に染まっている。その仄暗い部屋の、入口脇に設えられている押し入れの、昨夜閉めるのを断念したために半分開け放たれたままになっている襖の奥は、漆黒の闇に閉ざされて何も見えない。
何も見えないはずなんだ。
でも、確かにそこに何かいる。
眼を細めて押し入れの奥を注視してみるも、もともと俺は目が良くない。視力検査では一番上のＣマークがどっちを向いてるのかさえ分からないから、日中はコンタクトか眼鏡が手放せない人間だ。そんな人間に、薄暗がりの中真っ暗闇の押し入れの奥に何があるかなんて分かるはずもない。俺は早々に裸眼でそれを見極めるのを諦めると、枕元の眼鏡をかけて立ち上がった。
冷えた空気が、寝間着一枚の肌にキリリとからみつく。
明瞭な拍動に体全体を揺さぶられつつ、裸足の足裏に畳の微妙な冷んやり感を刻みながら、俺はゆっくりと押し入れに歩み寄った。
黒々とした長方形の上半分、布団の端切れだけがやけに白く浮かび上がるその暗黒の空間に、見慣れた寝具どもとはひと味違う物体が確かに潜んでいるのが分かる。眼鏡をかけてもこの暗さだ。何が見える訳でもない。それでも、眼を細めて暗闇の向こうをすかし見てみる。
闇の向こう、敷き布団とそば殻枕に挟まれるようにして丸まっているその「何か」は、少しだけ首を巡らせて俺の方を見たらしい。鈍い光を反射してつるりと光る二つの目玉が、暗闇に忽然と浮かび上がった。
――ネズミか。
片頬を引きつらせるように上げて笑ってみる。
この家は築四十年。俺にとってネズミは、物心ついた頃からともに暮らす仲間みたいなものだ。天袋を開ければ、痩せたチョコボールみたいなネズミの糞が必ず散乱していたし、賑々しく真夜中の運動会をおっぱじめることもしばしばだったから。
ネズミなら大丈夫だ。乱れた呼吸を整えるべく大きく息を吸って吐く。
ネズミにしては少々大きすぎる気もしたが、ネズミ以外だと認めた瞬間俺の体は動かなくなるだろうから、その可能性を強制的に思考の枠外に押し出すと、その物体を布団の上からどけるべく、俺はえいとばかりに右手を暗闇に突っ込んだ。
手首から先が、暗黒に溶けて見えなくなった瞬間。
唐突に右手を包んだひんやりした感覚に、俺の心臓は縮み上がった。
解き放たれる寸前の悲鳴を無理矢理喉に押し込んで、右手を即座に引っ込めると、超速で脈打つ心臓を宥めながら、押し入れの奥に広がる暗黒に目を向ける。
はみ出した布団の端切れだけが、漆黒の空間にぼんやり浮かび上がっている。
――何だ？ 今の……。
左手に守られている右手に、ほんのり残るその感触。ぞっとするほどひんやりして、それでいて肌を包み込むように柔らかい、優しい感触……。
ネズミの腹にでも手を差し込んだのかと思いたかったが、違う。曲がりなりにもネズミはほ乳類。体毛に包まれているんだから、体温は人間より高いはず。
冷え切ったシーツにでも手を突っ込んだんだろうか。いや、多分そうだ。内心びくびくしていたから、絡みついたシーツをそれ以外のものと認識して怯えたに相違ない。
チキンな自分を嗤いつつ、呼吸を整え押し入れに向き直る。
べったりと墨で塗り込められたような、押し入れの奥の闇。
ささくれだった喉に唾液を送り込み、息を深く吸って吐いてから、その闇にもう一度右手をそろそろと伸ばした、その時。
くすくすくす。
暗闇の手前三十センチメートルで、俺の右手はフリーズした。
冷えた空気にさらされて乾燥していく眼球の表面と、空気を取り込む仕事を放棄した鼻と、半開きのまま機能停止した、口。
――笑い声？
のばしかけた右手もそのままに、心臓の拍動を除く全ての肉体的機能を停止して、目の前の暗黒を凝視する。
その時だった。
暗黒を切り裂くかのように飛び出した何かが、中空で浮く俺の右手を包み込んだ。
「……！」
叫ばなかった代わりに、確実に小便はちびったと思う。
声なんか出ない。それどころではない。恐怖映画でギャーギャー叫ぶ奴、あれは正直余裕があるからできる技だ。本当にき○たま縮み上がったら、声なんて出すどころの騒ぎじゃない。動けねえ。マジで。
体中の穴という穴を全開にして、恐る恐る自分の右手を見る。
俺の右手を包み込んでいるもの、それは、手だった。
白くて小さい、信じられないくらい冷たい、それでいて柔らかい手。
くすくすくす。
俺の右手を握ったまま、そいつはまた笑った。
なんなんだ。
なんなんだなんなんだなんなんだ。
こいつ誰だ。
体中の汗腺から大量の冷や汗を噴出しつつ、まともにかみ合わない歯の根をカチカチ鳴らしながら、その手の主たる押し入れの中の物体を凝視する。見たくなんかないが、視線の移動すら叶わないのだから仕方ない。とにかく動けない。パンツも冷てえけど、そんなこと言ってる余裕すらない。怖い。怖い怖い怖い。
そいつはゆっくりと、俺の手首を掴んでいる手に力を込めた。
押し入れの奥に広がる、得体の知れない闇の向こうへ俺を引き込むように、その手を引き始める。
俺の体が十センチメートル、押し入れに近づく。
やめろ。
やめろやめろやめろ。
恐怖に竦んでヒートアップした頭から白煙が立ち上るかと思うほど、思考回路をフル回転して解決の糸口を捜す。
俺の体がもう十センチメートル、暗闇に近づく。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ！
その時、救済を求めて壁際を彷徨っていた左手が、何かに触れた。
はっとしてその突起物を見る。
スイッチ。
作品名：そこにあいつはいた。 作家名：だいたさん