かくれもの
真っ暗な中に、三つの大きな扉が浮いていた。
辺りに明かりはなく、暗闇の筈なのに、俺の目ははっきりと目の前の扉を細部まで網膜に映していた。まるで、その扉が、自ら淡い光を放って、その存在を主張しているかのような、不思議な光景だった。
ぱっと見る限り、全く同じもののように思える三つの扉は、よくよく見てみると、それぞれ違う彫り模様が施されていた。俺の真正面には、はらはらと舞い落ちる最中をシャッターで捉えたかのような、花びらの舞う一瞬が繊細に刻まれている扉があり、その左には、一枚の木の葉が静かな水面に色を添えるかのように波紋を描いている様子が彫られており、右側には、誰かの忘れ物だろうか、子どもが使うような、可愛らしい動物の模様のついた、小さなバケツとスコップが置き去りにされている、砂場のような丸い空間が描かれていた。その何れにも、何となく見憶えがある気がするのだけれど、自分と何かとても身近なものだった気がするのだけれど、どうしても思い出せない。
どれか一つに入れとばかりに、これ見よがしにその存在を訴える扉を前に、どうするべきかを考えることすらできず、ただ佇むのみとなっている俺の視界が、その端の方で、何かがさっと横切って行くのを捉えた。それまで、まるでメドゥーサと目を合わせたかのようになっていた俺は、弾かれたように、何かが過ぎ去った方へ顔を向けようとする。しかしそれよりも速く、その何かは俺の目の前に姿を見せた。何処からともなく現れたそれは、小さな少女であった。
不意に現れた少女は、ほんの少し前までは俺の目の前だった、今は彼女の目の前にある、扉の方へゆっくりと歩いているため、俺にはその小さな背中しか見ることができない。小さな背中を飾るように、腰には山吹色のリボンが綺麗に蝶々結びされている。頭の右側に結い上げた一房の髪が、歩く度にひょこりひょこりと揺れるのが、場違いに何だか可笑しく思える。彼女は、扉の模様以上に、俺に近い存在である気がしたけれど、俺には幼い身内などいないので、やっぱり思い当たる節がなかった。
少女が三つの内のどの扉へと向かっているのかを、じっと見つめていると、一つだけ、彼女が一歩近付くにつれ、少しずつ開かれていく扉があることに気付く。音もなく、静かに、少女を歓迎するかのように、その入り口を広げていく、恐らく少女の向かう先であろう扉は、真ん中の、花舞う扉であった。
少女の足が、あと数歩で扉の中へと吸い込まれる頃には、大きな扉は、やはり大きくぽっかりと口を開いていた。扉は、ほぼ完全に開かれている筈なのに、その先に何があるのかは真っ暗で判らない。もしかしたら、闇そのものがあるのだろうか。
少女が躊躇いもなく、扉の中へその小さな身体を進みこませるのとほぼ同時に、扉は少女の存在を感じ、意思でも宿ったかのように、開いた時と同様にゆっくりとその口を閉じ始めた。俺は半分ほど無意識に、彼女を追わなければならないと感じ、用は済んだとばかりに徐々に閉まって行く扉へと駆け寄り、一瞬の躊躇の後、暗闇へと身を投じた。
俺は、闇の中へと飛び込んだ筈だった。しかし、そこは闇とは全く正反対で、暖かくも優しい太陽がきらきら輝いていた。人間というものは、自分がこうだろうと思っていた感覚と実際のそれが異なっていると、平常以上に驚いてしまうものである。そのため、俺は柔らかい陽の光の明るさと暖かさに慣れるまでに、少しの時間を要した。そうして改めて味覚以外の感覚で、今自分のいる場所を捉えてみる。
俺が初めに認識した太陽は、強すぎることも、弱すぎることもなく、絶妙の力加減で輝いている。ほんのりと暖かい上に、時折気紛れのような風すら感じられるここは、非常に心地の良い場所であった。思わず深く呼吸をしてみれば、様々な芳香が鼻を擽る。華やかなのに上品さを欠かすことのない薔薇や、甘く思わず誘われてしまいそうな梔子、可憐で愛らしい金木犀。香りにいざなわれるままに、辺りを見渡すと、パンジーや椿、チューリップやコスモスなどが、季節など関係なく、美しく咲き誇っていた。ここは、足元にやや細めの道が一本あるのみで、周りすべてが、ありとあらゆる色を集めてきたような鮮やかさで満たされた、花畑だった。
花の香りに少し酔ってしまったかのように、ぼんやりとしていると、花以外のものがないように思われた道の先に、人の影のようなものが見えた。ふわりふわりと揺れるその影を、目を凝らして見ると、俺よりも先に扉をくぐった少女だと判った。
蝶が舞うように、軽やかに楽しげに歩く少女を、慌てて追いかける。目を凝らして捉えた少女の姿は、距離にすると、それほど遠くはなかった。しかし、花の隙間を縫うように続く小道は、まるで花畑を見せて歩かせるかのように、くねくねと曲がりくねっていた。俺はその細い道を、はみ出して花を踏み付けてしまわないようにしながら小走りで進む。
少女の所作までがはっきりと見えるくらいまで追いつくと、突然小鳥が眼前を横切っていったため、足に急ブレーキがかかる。スカートをふわふわと揺らしながら辺りの花を見渡し、跳ねるように進んでいた少女は、何かに気付いたように足元へと目をやる。少し横を向いた、心弾むような少女の表情が、黒く柔らかい髪の隙間から垣間見える。初めて目にした筈の、あどけなくも何処か辺に大人びた憂いを抱えたような少女の顔に、既視感を覚える。やっぱり俺の知っている子なんだろうか。
俺の存在にも、ましてや戸惑いにも気付くことなどなく、少女は嬉しそうに顔を綻ばせると、花畑の中へと入って行った。またとない心地良さの中、淡い色も濃い色も、小さなものも大きなものも、恐らくありとあらゆる種類があるのだろう花の中で座り微笑む少女は、まるで一枚の絵のようにくっきりと鮮やかに俺の目に映った。
少女は、俺の目には見えない何かと会話でもしているのか、ころころと表情を変え。それでもやはり笑っていた。彼女の近くの花は、まるで語りかけるように、少女に合わせて笑っているのかのように、優しく揺れている。
不意に、それまでは、撫でるような穏やかさで吹いていた風が一瞬だけ強くなる。風は、たんぽぽの綿毛を舞わせていた。季節外れの雪のように空を踊るそれを、俺も少女も、目を奪われたように見つめていた。
暫く空を眺めていた少女は、何かに声でもかけられたのか、また足元に目をやる。先程の笑顔ではなく、どことなく真剣な顔で揺れる花を見つめていたと思うと、彼女はすくっと立ち上がる。果てがなく広がる花畑に、一度あどけない笑顔を向けると、どこまで続くのか、先の見えない道を早足に進んで行った。どうするべきかと、もう舞い上がる雪のない空を見上げると、どこまでも気持ちの良い風が通り過ぎる。
「さあ、いってらっしゃいな」
風に紛れて、くすりと小さな笑い声と共に、そんな声を聞いた気がした。