王立図書館蔵書
抜けるように真っ青な空。開けっ放しの窓からは暖かい温もりを帯びた春の風が流れ込み、葉ずれの音が耳に心地よく響く。
今日はとてもいい天気だった。いつもなら引き出しの一番奥に隠してある普通の服を引っ張り出してこっそり城を抜け出して、町の子達と遊んだり、日が暮れるまで原っぱに寝そべったりしているはずだ。それとも市場で大きな魚や元気な人々の流れを日暮れの鐘が鳴るまで眺めていただろうか。
もしこの天気が今日でなく昨日かそれより前の日のことであったなら、間違いなくそうしていたはずである。しかし今日ばかりはそんな春の陽気さえも鬱陶しいだけでしかない。たとえ今日がどんな天気だろうと、玉蘭の心の中は土砂降り大雨洪水注意報発令中なのである。
昨日の夜遅く部屋に帰ってきてからずっと、玉蘭は天蓋つきベッドの枕に顔を埋めて泣き続けている。もう何日もこうしていたような気さえするのにまだ一度しか朝が来ていない。どうしてこんな時に限って時間の流れが遅いのだろう。
こんなに悲しいのも苦しいのも生まれて初めてだった。二つ年下の弟が行方不明になった時でもこんなに胸が痛くはなかったのに。
自分の嗚咽と重なって扉の向こうの廊下を歩くたくさんの足音が、微かにだがはっきりと耳に飛び込んできた。
玉蘭はぎゅっと目を閉じたままシーツを強く握り締め、不快に顔をしかめる。歯を食いしばる。
いっしょにガチャガチャ音がするのでそのほとんどの足音の持ち主は鎧を装備しているに違いない。しかもこれだけの数ならば城の見回りというわけでもないだろう。かといって、緊急事態に焦っているようでもない。それならば彼らの正体は決まっている。国王の親衛隊だ。
玉蘭はそう見当をつけた。国王が城の奥に帰ってきたということは一仕事終えたということである。
そして、今日の仕事は日常の雑務を除けば一つしかない。即ち、勇者の処刑である。
国王が今ここにいるということは、今さっき一人の勇者が首を切って落とされたということだ。
「・・・・・・・・・・・・っ」
また涙がこみ上げてきた。更に強く両拳を握り締め、必死で声を押し殺す。外の奴らに泣き声を聞かれるのなんて絶対にごめんだった。
王子を救出した勇者は王子を無事に救出することのできなかった罪で首を刎ねられたのだ。救出したから殺された。もし他の勇者と同じように王子を見つけることができなかったなら、あの勇者はおそらく死なずに済んだのだ。
いや、違う。
玉蘭はその考えを否定した。結果はどうであれ、たとえ抜け殻であったとしても、最愛の弟が帰ってきたことは喜ぶべきことなのだ。
勇者を殺したのは魔王だ。そしてきっと弟をあんな風にしてしまったのも。
気が遠くなるほどずっと昔、ある人間の女と悪魔の間に子供が生まれた。どういう理由でそんなことになったのか玉蘭は知らないし、たぶん国の偉い学者も誰も知らないと思う。とにかく、その子供は人のかたちをしていながら悪魔の力と魂を持っていたのだという。その人間と悪魔の間に生まれた子供は世界に大いなる災いをもたらし、やがて勇者に滅ぼされ、世界に平和が訪れた。
という伝説を、世界中の人間が信じている。国境も海も越えて、この国の誰もがまだ一度も訪れたことのない国にだって同じ伝説が存在して、当然それを信じているのだ。もっとも誰も行ったことのない国のことをどうしてこの国の人々が知っているのか玉蘭は不思議で仕方ないのだけれど。
問題はこの先だ。伝説には続きがある。むしろまだ続いているといったほうが正しいだろうか。
魔王の血を受け継いだ子孫は今もまだ生きている。それもたくさん、世界中に。そしてその子孫たちもまた魔王と呼ばれて人間に蔑まれ、また時として勇者に討伐されるのである。
魔王たちは今でも遠い祖先である最初の魔王が殺されたのを恨んでいるのだ。だから悪魔の血の力である「魔法」を使って、人間に災いをもたらす。その呪われた血はどんなに勇者に殺されても絶えることなく、伝説から長い長い時を経た今でも生き続けている。
そう教わって玉蘭は生きてきた。しかし本当のことを言えば、何が本当で何が嘘なのかよくわからないでいた。だって玉蘭は魔王を見たことがないから。だって玉蘭は魔王に何かされたことがないから。
だから玉蘭は魔王が本当に大人たちのいうような恐ろしい敵なのか疑問に思っていた。
玉蘭の知る外の世界は一人の勇者の話してくれた嘘みたいな物語が大部分を占めている。それとほんのちょこっとだけ、嘘みたいにつまらない勉強の時間に読む本も。
いつだったか勇者に聞いたことがある。魔王は悪い奴なの、と。その時の勇者の答えはイエスでもノーでもなくて、玉蘭には難しすぎて忘れてしまった。確か人間がたくさんいるけど玉蘭は一人だとかなんだか当たり前のおかしなことを言っていたような気がする。
でもその勇者は殺された。魔王のせいで、父王の家来に。
だから今、玉蘭は確信している。魔王は悪い奴なんだ。だって玉蘭から大切な弟と初めてできた友達を奪ってしまったんだもの。
「あの、姫様」
不意にどこかから声がした。驚いて玉蘭は跳ね起きたが、部屋に誰か入ってきた様子はない。
扉の外も静かなままで、人の気配どころかガチャガチャうるさい足音も既に遠ざかっていた。
気のせいだったのかしら、玉蘭がそう思うのと同時にまた声がした。
「姫様、こちらです。窓の外です」
やっぱり気のせいじゃなかった。
「誰かいるの?」
少しどきどきしながらベッドをはいずり出て、窓のほうへ顔をやる。壁にかかった鏡を見て自分の髪がぼさぼさなことに気づいて慌てて手櫛で整えた。ぐちゃぐちゃの顔もパジャマの袖でごしごし擦って誤魔化す努力をする。
そうして適当に身なりを整えて窓へ寄ってみたが人の姿はない。やっぱり気のせいだったのかしらと何気なく下を見て、初めて声の主を見つけた。つい飛び出そうになった悲鳴を飲み込む。どうりでわからなかったわけだ。相手は窓の真下にしゃがみこんでいたのだ。
見たところ相手は城の衛兵のようである。しかし衛兵とはいえ中庭の、しかも姫の部屋の窓の真下にしゃがみこんでいる理由にはならないだろう。普通なら見つかれば投獄か悪くて死刑だ。
「何してるの?」
今度は別の意味で驚いて玉蘭は尋ねた。念のため一歩部屋の中に下がって距離を置いて。大声を出せばすぐに玉蘭直属の護衛兵たちが駆けつけてくる。
「あ、あの。俺、いえ私は昨晩地下牢の警備の担当でございました。えっと、あの方に昔お世話になったことがあって、いや、ありまして。それで、あの、姫様へ届け物を」
「・・・・・・勇者ね!」
昨日地下牢に囚われていて、しかも衛兵を使ってまで自分に届け物を寄越すような友達は玉蘭には一人きりしかいない。玉蘭は警戒も忘れて窓枠に飛びついた。
玉蘭に驚いて衛兵はわっと悲鳴を上げた後でこくこくと何度もしきりに頷いて、手にしていたものを前に差し出した。
それは小さく折りたたまれた紙束だった。
「あの、私はこれで」