王立図書館蔵書
勇者が手紙に書き写した楓の日記の最初の日には、確かに「マオウもぼくが急にあらわれてびっくりしてた」と書いてある。それならば、楓が浅葱の前に現れたのは浅葱の意図したところではないのだ。
楓が考えたように、ひょっとして楓はあの時はじめて生まれたのだろうか。いいや、そんなはずはない。だって楓は間違いなく玉蘭の弟なのだから。楓が生まれてからずっと一緒に育ったのだから。
一歩踏み出しかけたまま、難しい顔で遠く城の方を見つめ、しばらく考え込んでいた。しかしそろそろ空気が冷たくなってきたので、玉蘭は帰ってからゆっくり考えようという結論に達した。こんなところで風邪をひいたら当分城を抜け出しづらくなってしまう。ただでさえ母親も父親も玉蘭が勝手に城を抜け出すことを快く思ってはいないのだ。
声を聞いたのはそのときだった。
「誰?」
どこか遠くで名前を呼ばれたような気がした。たぶん若い、玉蘭と同じくらいの男の子の声。
サミシイ、ヒトリハイヤダ
間違いではない。確かにはっきりそう聞こえた。
しかし辺りを見回しても誰もいないし、どちらの方向から声がするのかも判別できなかった。踏み出しかけたままだった足を玉蘭は静かに踏み出す前の位置におろした。
「どこにいるの?」
呼びかけても返事はない。言葉はただ一方的に、孤独を訴えているだけ。
ダレカ、ダレカ・・・・・・
なんて、さみしい声なのだろう。玉蘭はそう思った。声の主に会わなければならない。それが次に浮かんだ考えだった。
勇者が旅に出てしまって楓も行方不明になり、独りぼっちの玉蘭も声の主と同じことを思っていたから。それに一人でいるより誰かといっしょにいるほうがずっとずっと暖かいから。
「ねぇ、さみしいの? じゃあ、わたしがいっしょにいてあげる。友達になろう?」
目を閉じて、その声に語りかけた。自分の声が届くと信じて。知らぬうちに彼女は笑みを浮かべていた。
不思議なことに、玉蘭は声の主の正体がわかっていた。そして、もう当分勇者に会いに来ることもできないだろうということも。
ごめんね、勇者。ちょっとしばらく出かけてくるわ。
心の中で勇者に小さく謝った。
玉蘭は目を閉じたまま、前へ向かってもう一度足を踏み出そうとする。その一歩はさっきの一歩よりもはるかに強い意志のもと、今度こそきちんと踏み出された。
次に目を開いたとき、そこは東のはずれの墓地じゃなかった。
「お、お前誰だ? どうやってここに忍び込んだんだ!」
そこにいたのはやっぱり自分と同じくらいの年頃の少年で、群青色のローブを身にまとっていた。その顔は突然現れた少女の存在に驚きと警戒が入り混じった様子で、けれどその中にどこかほっとした雰囲気を感じたのは玉蘭の気のせいだろうか。
「わたしの名前は玉蘭。姓はたった今捨てたわ。ねぇ、これから一緒に世界征服しない?」
玉蘭は心の底で泣いていた小さな魔王に右手を差し出し、にっこりと微笑んだ。
ここから元姫君と少年魔王の清く正しい世界征服がはじまるのである。