涙唄
(わたしは彼に矢が向かっていることを報せたかった。でも彼は聴いてくれなかった。彼 は射(う)たれてしまった。それが、とても哀しかった。だからわたしはうたったわ)
唄は男にそう伝えます。しかし男は一向に信じようとはしません。男の言葉に困りでもしているのか、魔物からの返事が暫く途絶えました。黙ってしまった相手に何か言おうとしたその時、再び水が細かく震えました。
(海の底は、死者に最も近き場処)
男は魔物が何を言わんとしているか、何となく悟りました。そして、彼はハープを鳴らします。どうすれば行ける。何でもする、行き方を教えてくれ。男の言葉に、また魔物は暫く沈黙します。
「教えてくれ」
男は再度訴えます。泡になって消えてしまうことを判っていても、声に出して言っていました。その彼の想いの強さが伝わったのか、魔物は唄を返しました。
(ひとつだけ、おねがいをしても?)
構わない、だから教えろ。男は、魔物と言葉を交わしていくうちに無意識に、彼女がひどく人間らしいと感じるようになってきていました。
(どんな結果になろうとも、おねがいを守ってください。そして死んだことを納得してい る者をけっして無理に引き戻してはなりません)
彼女は其処への往き方を教えます。男は頷き、海の底の更にその奥にあるという、死者の地へ向かいました。最後にありがとうと彼の出来得る一番美しい音で伝えると、海に住む魔物は言葉を返すことはせずに優しい笑顔のような振動を彼のもとまで伝え、男のハープの弦を震わせました。彼には、何故だかその音こそが彼女の本来のものだと感じられました。
暫く泳いだ先の水辺は、先程までその身を浸からせていた水よりももっと冷たい空気が辺りいっぱいに充満していました。男は死者の地へと辿り着いたのです。男は水から上がるとすぐに駈け出して友の姿を探しました。ぽっかりと口を開いた洞窟に入って暫くもしないうちに、男は探し求めた姿を見つけました。生前の彼と何一つ変わらないように見えたその姿でしたが、ただ一つ、背中から胸を貫かれた穴が今の彼には存在していました。
「何で此処にいるんだ」
友はひどく驚いた顔をして言います。男は此処に至るまでの経緯を彼に話しました。魔物が、彼を救おうとしてくれたことも。
「あぁ、俺は何処からか飛んでいた矢に射(う)たれた」
ほら、と彼は自分の胸に空いた穴を見せます。
「しかし、そうだったのか。あの魔物の唄は警告だったんだな」
「あぁ。なぁ、このまま一緒に戻らないか。彼女も、独りでひどく泣いていた」
男は、彼の恋人の泣き崩れる姿を思い出し、そう提案しました。死した友はやや考えた後、迷いながらも小さく頷きました。
「人間は背中が一番“死”に近い。“生”の力は恐ろしく強い。この洞窟を抜ける時、決 断を惑わされないようこちらを振り返らないで進んでくれ。“生”と“死”どちらを 選ぶかは死者が決めなくてはならない」
彼はそう言うと、男の背中をトンと軽く押しました。さあ進め、そういう意味なのだと感じ、男は暗い洞窟を抜けるために、死の世界から抜けるために歩み始めました。寒く静かな洞窟の中には、男の歩く音だけが響きます。死者である彼は足音すらしないのです。男は段々と不安になってきます。彼は本当に後ろにいるのだろうか。こんなふうに簡単に生に帰すことを世界は赦すのだろうかと。暗く、狭く、冷たく静かな其処は、男の不安を大きく煽ります。
「なぁ、お前ちゃんとついてきてるか」
ま るでたった一人で歩いているような気がしてきて、男は背後に声をかけます。しかし後ろからは何の返答もありません。再度訊ねてもやはり返事はありません。そうして、男は遂に不安と心細さに耐えきれず、一人きりでいるかのような不安を抱いたまま振り返ってしまいました。
振り返って見た親友の顔は、見た事もない程哀しげなものでした。
「なぁ、俺やっぱり残るよ。戻っても、きっと生きていては彼女と幸せになれない」
「そんなことは、」
「彼女もいつかは此処に来る。そうすればやっと俺は愛しい人と幸せになれる」
だから、もどれない。哀しいけれど優しい顔で友は言いました。男は歌姫の言葉を思い出し、それ以上は何も言わず、ただ、いつかまた会おうと手を挙げて、今度は不安を抱くことなく冷たい洞窟の出口へと足を速めました。
死者の地からも、海からも還った男には、まだやるべきことがありました。彼はその使命を果たすために、生まれ育った町を出て旅に出ました。海の住人の美しい唄を識(し)るハープを抱え、彼は海沿いに町から町へと歩き続けました。
○ 。 ○ 。 ○
ある王子がいました。彼は願っていました。この広い世界の何処かに、必ず彼の望みを叶えられる存在があることを、そしてそれが現れてくれることを、ただ只管に願っていました。
彼は、綺麗な海のすぐ傍にある国で生まれ、その国の王子として育ちました。その国は平和で穏やかでしたが、とても嵐の多い国でした。彼は小さな頃からとても歌が好きでした。優しくて包み込むように大きくて、美しい世界をふんわりと歌った歌を聴くことが大好きでした。彼自身もあたたかい世界を、綺麗な声で優しく優しく歌うのでした。王宮には、何人もの華やかな歌姫がいます。彼女たちは王国随一の華麗な歌声を持っていました。しかし王子は彼女たちの歌を聴くことは好いてはいません。彼女たちはいつだって着飾ったような不自然な華やかさを持つ歌声で、一様にこの国や国王や彼自身を賛美する歌しか歌わないのです。不必要なまでにそれらを褒め称える彼女らは、その言葉の一つ一つの意味を考えることもしないし、本来何かを想うからこその歌に何の感情も込めないので、ただ美々しいだけの白々しく空っぽな音と言葉を紡ぎ続けているだけにしか、王子には思えなかったのです。王子は、自分の国も国王である父も好きでしたが、別にその総てを正しい、素晴らしいと賞賛して欲しいわけではありません。彼は国や世界のただある姿を、感じたままの素直な想いを込めて歌った純良な歌が聴きたいだけでした。しかし、そんな王子の心を理解してくれる人はいませんでした。皆、上辺だけ華美な歌姫を連れて来ては、これこそお前の求める歌だろうと自信満々に言ってくるのです。空虚な音を聴き続けることは、王子にとってとても遣る瀬無いものでした。段々とその耳障りな音で鼓膜を震わせることを、体が拒否するようになったのか、次第に王子の耳は歌だけが聴こえなくなっていきました。どんなに美麗な歌姫が麗しいとされる歌を披露しても、王子には目の前で無駄に着飾った女が大きく口を開けて間抜けな顔を晒しているようにしか感じられませんでした。王子の堪らない気持ちはこれ以上増幅することはなくなりましたが、彼は自分の愛して止まない彼の思う本来の歌さえももう聴くことは叶わないのかと、とてもとても哀しみました。彼の父である国王も、歌だけが聴こえなくなり消沈する息子の姿をひどく憂いました。