そらのまんなか
Prologue
空は、今まで見たこともないような色に見えた。
自分らしくもない、と一瞬自嘲し、片手でゴーグルを浮かせて目を擦る。
他人と比較すれば小さめの体は大した体力もなく、身体能力も仲間の平均からは劣るだろう。反射神経だけがせいぜい人並み以上だ。それでも、生き延びてこられた、否、結果的に生き延びてしまったのは、人より良い視力のせいだ。唯一の仕事道具は、まだ当分はきちんと機能しそうだった。
心地よい振動が、ずっと背中を撫でている。彼はゴーグルをすぐ元に戻すと、横で立ちのぼっている黒い煙の元をたどった。一機の機体が、ゆっくりと高度を下げているのが見える。エンジンはもう半分死んでいて、それが音から分かった。追う必要はない。
視界を一周見渡してから背面飛行で下を見た。敵影はゼロ。
……敵? 一体誰の敵だろう?
何かを忘れている気がしたが、思い出せずにロールで上昇した。舵は切らず、トルクに任せて回転。螺旋を描くイメージを、思い浮かべる。視界には雲と空。下の方に、地面と建物が見えた。
上りきってからゆっくりと機体を水平に戻しながら辺りをもう一度確認する。やはり、何かが神経にひっかかった。
メータを確認する。燃料は絶対的に足りていた。基地まで往復してもまだ余るだろう。
仕事を、任務を、思い出す。偵察は終わった。攻撃された時点で、それは明白だ。あとは基地へ帰り、上司に二人揃って報告をするだけだ。
偉そうな上司。事実偉いのだから、その態度に文句はない。以前の上司より三千倍はマシだった。少なくとも公私混同はしそうにない。個人的感情を隠せないほど子供でもない。その分、規律に厳しいが、頭は堅くない。こういった現場では珍しいタイプの人間だ。きっと、苦労しているだろう。自分と同じように。
そう思うと、少しおかしかった。
上司の顔を思い浮かべる。彼女は子供ではないが、大人でもなかった。大人が間違ったことを、間違っていると指摘できる能力と勇気をもっている。勿論それを、本当に勇気と呼ぶのであればの話だが。
帰ったらシャワーを浴びて、制服を着る必要がある。きっと、最低二か所は嫌みなパートナに駄目出しをくらうだろう。その奇麗な顔を嫌そうに歪めて、ネクタイが曲がっているだとか、シャツに皺があるだとか靴が汚いだとか文句を言うのだ。彼らの間では最近、そんなやり取りでしかコミュニケーションと相互理解を結びつける手段がないように思う。
ようやくその存在を思い出して、彼はすぐにその姿を目で探した。機影は見当たらない。左翼を下げて旋回した。徐々に高度を落とす。来た方向へ機首をむけて、さらに高度を下げた。水面の上をのろのろ飛んでいる機体を一機、確認。カラーリングとペインティングでそれと分かった。しかし、動きが驚くほど鈍い。きっと、どこかやられたのだろう。
その進路から、すぐに目的地がわかった。無線を繋いで、彼は一言だけ言った。
「何やってるんだ、馬鹿」
返事を待つ間に、上を追い抜く。真上で少し速度を落として、合図代わりに翼を左右へ振ってやった。無線から前振りのノイズが耳に入り、そして少し遠いところから、声。
「馬鹿はお前だ。何故戻って来た?」
その声の調子に、少しばかり彼は安堵した。すぐに思考を切り替え、わずかに右翼を下げると、ほぼ垂直に降りた。
海の青さが、視界にはいる。このままどこまでも墜ちて行けたらいいのに、と彼の中で誰かが囁いた。その言葉を無視して、心は準備を始める。
いつも高度を落とす時には、撃ち落とされる時のことを考えた。きっと、エンジンを切ってまっすぐに落ちて行けたら気持ち良く死ねるだろう。硬い地面ではなくて、綺麗な海に落ちるならなお良い。吸い込まれるように、落ちてみたい、と時々思う。
しかし多分、イコール死、にはならない。でも、もしかしたら二アリーイコールにはなるかもしれない。
次に、死について考える。そして、自分が生きている感覚を味わう。波打つ鼓動、動いている心臓。高さを時々思い出して、震える手足。
それが、儀式。
それが、魔法。
きっと幼いころに誰かにそうするように思い込ませられたのだろう。飛んでいる時に、生きていることを実感する。否、生きていることを確認するために、何度も空へ向かう。いつの間に、飛ぶことなしでは、生きて行けない体になっている。
――意識はいつも、そらのまんなかへ墜ちて行く。
それとは逆に、右手は無感動に決まった手続きを踏んだ。
地面が、近づいてくる。