My Goddess
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それから、久しぶりに、コーヒーを煎れた。
いつも通りコーヒーメーカーに三人分の水をセットして、粉を選ぶ。甘いのが飲みたいという彼女の要請を受けて、豆はモカを選んだ。
コーヒーメーカーを、それまで一人で使っていたには大きすぎる食卓の上に置いて、コーヒーが落ちてくるまでじっとそれを見つめた。
ガラスで出来たサイフォン式のクラシカルなコーヒーメーカーの中では、水が次第に音を立てて上り、落ちてくるのが見える。昔はその仕組みが分からなくてわくわくしながら飽きずに眺めた。そして今、その仕組みが分かっていても、期待感のような気持ちはなくなっていない。
俺は食卓の上に両肘を乗せて、頬杖を付いた。
彼女に対する気持ちも、もしかしたらそういうものなのかもしれないと、思う。変わったのは彼女ではなく、俺の方で。それまで感じたこともなかった家族愛のような感情を、刷り込みのように与えられて、それを自分のものだと思いこんでいたのだ。しかし二年前には分からなかったことが現在分かっていても、気持ち自体に変化はない。
欠けていたものが満たされるような、乾いていた気持ちに水が染み込むような、ざわついていた感情が落ち着きを取り戻す、そんな気持ちを彼女と一緒にいると感じるのは、今も変わりがない。
今も何一つ、消えてはいない。
できたてのコーヒーを、マグカップに注いだ。彼女の方には砂糖を多めにいれ、その上からコーヒーよりやや少ないくらいのミルクを落とす。面倒だったので、自分の方には何もいれなかった。元々俺自身はコーヒーに特にこだわりはない。豆の種類も、ここに来るまではほとんど知らなかったし、正直、そこまで味の違いは分からない。さらに言ってしまえば、不味くなければ何でもよかった。
使ったものを流しに置いてからマグカップを両手に持って、キッチンから部屋まで戻る。さすがに手でドアは開けられずに肘と足を使って開けると、彼女はいつの間にか持ち込んだらしい雑誌をつまらなそうに眺めていた。ファッション誌と情報誌の中間のような内容が、ちらりと見える。
「はい、コーヒー」
部屋の中央においてある小さなテーブルにマグカップをそっと下ろすと、彼女が礼を言って手を伸ばした。
しばらく黙って、二人でコーヒーを啜った。思い出したように、彼女が顔を上げる。
「そういえば英二、友達いたのね」
「それ、どういう意味?」
「学校とアルバイト以外真っ直ぐ家に帰ってくるから、もしかしたら友達がいないのかと思っていたわ」
自分で言ったことが可笑しかったのか、小さく鼻で笑って、もう一口、コーヒーを啜る。
「杞憂だった」
「その通り。余計なお世話」
澄ました顔で、しかし軽い調子で俺は返して、どちらからともなく笑い合う。コーヒーを半分ほど片づけてマグカップをテーブルの上へ戻すと、俺はベッドに腰掛けている彼女の隣に二十センチほど間隔をあけて座った。
「頭痛はもう平気? 辛かったら寝ていた方がいいわよ」
「少しだけだからいいよ、別に」
上の空で返事をして、彼女の挙動を見つめた。俺の視線に気づいて、こちらを見る。そして、笑みをこぼした。
「無理しないの。まだ顔色悪いもの」
彼女が俺の頭に手を伸ばし、軽く押した。それに大人しく従って、俺は横に体を倒す。少し奥の方へずれて、横になる。それに合わせて、彼女は横に座り直した。頭から離れていく手を、俺は握った。
「別に何処にも行かないわよ。今日はもうここにいるから、大人しく寝なさい」
そう言われても何だか離しがたくて、俺は手を握ったまま彼女の方を見た。もう片方の手で、彼女が頭に触れる。
そこに遠慮のようなものを感じ、俺は握った手を引き寄せた。小さく声を上げて彼女が俺の横に倒れ込む。ピントが合わないほど、顔が近かった。
何も言わず、握ったままだった手を離した。代わりに顔を彼女の肩のあたりに寄せる。痛む方の頭を軽く押しつけた。
仕方がないな、とでも言うように、彼女は吐息を漏らして俺の頭を抱き寄せた。先ほどと同じように、指が髪をとかすように頭を撫でる。まるで子供をあやすみたいだとは思いつつ、その気持ちよさに俺は目を細めた。
腕をそっと伸ばして、彼女の背中に触れる。抱きしめると言うよりは軽く、触れる程度に手を回して、感触を確かめた。
無言の甘えが許容されたことに安堵して、ようやく目を閉じる。ずっと、頭をなで続ける手の感触を感じていた。
そして痛みは少しずつではあるもののおさまっていって、俺は、久しぶりに夢を見るほど長く眠った。
目が覚めて、横に彼女の顔があったときには心底驚いた。記憶の欠落はすぐに埋まって、それが自分のせいだと思い出したときには気恥ずかしい気分になる。同じ部屋で寝たのは、半年近い同居生活で初めてだった。
しかし気が付くと、頭痛は嘘のようにひいていた。
そっとその横を抜け出し、いつものように着替えて支度をし、朝食を準備した。
空は抜けるように青く、まるで宇宙まで突き抜けそうくらい晴れていた。自転車でも行けたけれど、何となく気分で歩いて家を出る。いつもよりことさらゆっくり歩いた。
驚いたことに、学校までの道のりは、ほぼ毎日通っているはずなのに昨日とはまるで違う風景みたいに思えた。今までかかっていた頭のもやのようなものが頭痛と共に去ったように、気持ちも軽かった。足取りも自然、軽くなる。何を今まで気にしていたのか、不思議なくらいで。
学校について、いつもの指定席に座ると、五分もせずに修がやってきた。いつものように、俺から一つ空けて右隣へ座る。荷物を下ろして座り挨拶を交わすと、奴は俺の顔をみてすぐに怪訝そうな顔をした。
「何や、今日はえらいすっきりした顔しとるな。何かあったん?」
ちょっと考えて俺は答えた。
「あったと言えばあったし、なかったと言えばなかった」
曖昧な返事をすると、修はさらに困惑した表情になったが、それ以上は聞いてこなかった。きっとこのあたりが、長時間側にいても嫌にならない理由だと、思う。
修には言わなかったし、勿論兄貴にも、彼女にも言わなかったが、今まで胸の奥でひりひりしていた何かが、確かなものに変わって、自分の中にあるのが分かった。
兄貴が言った『最善』をきっと俺は選ばないけれど、後悔はしないだろう。後悔は、彼女との生活を否定することで、それはすなわち、今の俺を否定することになるから。
この先彼女に対する感情や、この生活が変化したとしても、ここが始まりであったことには変わりがない。
俺の悩みも、迷いも見透かして、しかし受け止めて、微笑んでくれた。そんな小さなものだけれど、大事にして生きていきたかった。
俺も誰かの為に、何かが出来る人間になりたいと、思わせてくれた。
世界を広げたきっかけが、彼女。
やっぱりそれは、いくら感謝しても、したりなくて。
それがまた、俺にとっては、始まりなのだ。
作品名:My Goddess 作家名:名村圭