変奏曲-First Impression-
パシャン…。
微かな水音。
それは本当に微かな音だったけれど、その場にいることに飽きていた俺の興味を引くには十分すぎた。
音のした方向、隣のテーブルへと目を向けると、そこにいたのは、男女。
どちらも一見して分かるほど美しい、似合いの一対だった。
しかし、女に相対する男の頭から頬、そしてあごへと赤い液体がしたたっていた。
…つまり、先程のは女が男へワインをかけた音だったらしい。
険しい顔で男を見下ろす女。
それにそぐわぬ男の冷静さ。
拭うこともせず、したたるにまかせた赤い水が床に水たまりを作っていく。
「あなた、最低ね」
と、低められた女の声。
「そりゃどーも」
高いトーンで、なおかつ満面に微笑みをたたえて返す男。
溜息をついて女がうつむき、グラスをテーブルに置く。
「…ホント、最低」
そう言い残して女が去ると、見かねた姉が男へタオルを差し出した。
相変わらずの微笑みでそれを受け取る。
一通り片付いてから、男は席を立つ。
近くにいた姉に先程の女と自分の分の酒代より多い硬貨を握らせた。
姉が慌てるのを自分の口元へ指を当てるジェスチャーで黙らせて、そのまま去っていく。
その一瞬、姉から出入り口の方へ振り返ろうとした一瞬に俺と目があった男は、にっこりと笑みを浮かべた。
嘲笑よりも艶やかで、艶笑よりもバカにしたような笑い方。
彼は俺に何か伝えたかったのだろうか…?
「眠れない…」
いつもなら寝ている時間にちっとも眠気がやってこない。
あきらめて、俺は掛け布団を押しのけ起き上がる。
流れる空気に恋い焦がれ、立ち上がって窓を開ける。
ゆるりと風が流れ込み、火照った肌の熱を奪う。
長く、ふーっと息を吐いても、高ぶる感情が抑えられない。
アイツが向けた真剣な眼差しが蘇って、戸惑う。
「お前が好きだ。この世の誰よりも」
不意に告げられた言葉。
親友だと思っていたアイツから、突然の告白。
「嘘、だろ?」
そんなバカなことがあるわけない。
何か気の迷いでも…。
だが、俺の楽観的憶測は簡単に否定された。
手首を捕らえたアイツの手に力が込められる。
「こんな笑えない冗談、言うわけないだろーが」
茶化すように笑ってもなお、目の輝きは真摯だ。
俺が苦しまぎれに笑ってみても、ヤツは揺るぐことなく見つめてくる。
…バカだよ、お前。
俺が困るの分かってて、お前の想いを受け入れられないのが分かってて、逃げ道だけを塞ぐのかよ。
俺には重すぎる想いで。
「…ムリに決まってるだろ?
俺にとってお前は親友だ。他の誰にも代わりは出来ない親友でしかないんだ。
大切だけど、それは友愛で、恋愛じゃない」
この時、アイツの表情はかたまった。
…分かっていた結末だろ?
それなら、そんな悲しそうな目をするなよ。
俺が、悪いコトしてるみたいじゃないか…。
俺は拘束が緩んだのを機にかたまるアイツを残して走り去ってきた。
今は中天より西にある月がまだ東から出てきた頃のことだ。
夜闇にポッカリとまん丸な穴が開いているような満月。
家々の明かりが消え、ひっそりと朝を待つ今頃の時間は、月も星々もこんなにも明るい。
父の昔話で聞いたこともこんな風に月が綺麗な夜だったのだろうか。
父が語った昔の話。
昔、父の営む酒場の常連だった美しい娼婦が、部屋で眠るように死んでいたのだという。
首元に二つの穴のような傷跡があり、死因は明らかな失血死。
だが、彼女の横たわるベットの上に一滴の血も落ちていなかった。
街の治安部隊は、不可思議な事件だと言うだけでその捜査を放棄した。
だが、その前日に父は見ていた。
彼女が真っ黒な出で立ちの男と連れだって出ていったのを。
誰に言われるでもなく、父はその男こそが犯人であると確信したのだという。
「吸血鬼にだけは惑わされるな」
父がよく言うセリフ。
本気なのかどうか幼い頃は半信半疑だったけれど、昔語りを聞いた今では本気だと分かる。
姉にしつこく言って聞かせるのは、父がその娼婦の死を悔いているからに他ならない。
幸せそうに笑って去ったその人のことを少なからず父が気に入っていたということなんだろう。
そして、父はそのセリフを俺にもくり返す。
男に告白されるような容貌を持つ俺を血迷った吸血鬼が連れ去るとでも思っているのだろうか。
それとも、そんな奴について行ってしまいそうだからだろうか…?
窓から身を乗り出して、空を見上げた。
いつも通り、星は明るい。
変わらぬ空、それなのに、俺の周りは一変してしまった。
明日からは、アイツとバカな話をしたり出来ないだろうから。
他にもいる友人達とアイツとでは天と地ほどに信頼度が違う。
そんなアイツが離れていくと思ったから、俺の心にあの闇夜の満月のような大きな穴が空いているのだろうか。
寂しくて、空を睨み据えた。
日常の普遍を望んでも、もう遅い。
アイツと俺の関係は、一生、かけがえのない親友のままだと思っていた。
それなのに、なぜ変わってしまうんだろう…?
「何やってんの?」
不意に聞こえた声。
俺は驚いて、辺りをきょろきょろと見回す。
だが、誰もいない。
…空耳、か?
「横じゃなくて、上」
またしても聞こえてきた声と同時に黒いシルエットが俺の目の前に現れた。
くるりと前宙をして目の前に身軽く降り立ったのは、闇色の髪を肩より長く伸ばした長身の青年。
彼の目の色は、俺の記憶に焼きついたあのスカイブルーだった。
「どこから…」
「屋根から」
青年は上を指さして首をかしげてみせる。
現れた方向には確かにそれしかないが…。
「そうじゃなくて、何で、こんな所に?」
微かな水音。
それは本当に微かな音だったけれど、その場にいることに飽きていた俺の興味を引くには十分すぎた。
音のした方向、隣のテーブルへと目を向けると、そこにいたのは、男女。
どちらも一見して分かるほど美しい、似合いの一対だった。
しかし、女に相対する男の頭から頬、そしてあごへと赤い液体がしたたっていた。
…つまり、先程のは女が男へワインをかけた音だったらしい。
険しい顔で男を見下ろす女。
それにそぐわぬ男の冷静さ。
拭うこともせず、したたるにまかせた赤い水が床に水たまりを作っていく。
「あなた、最低ね」
と、低められた女の声。
「そりゃどーも」
高いトーンで、なおかつ満面に微笑みをたたえて返す男。
溜息をついて女がうつむき、グラスをテーブルに置く。
「…ホント、最低」
そう言い残して女が去ると、見かねた姉が男へタオルを差し出した。
相変わらずの微笑みでそれを受け取る。
一通り片付いてから、男は席を立つ。
近くにいた姉に先程の女と自分の分の酒代より多い硬貨を握らせた。
姉が慌てるのを自分の口元へ指を当てるジェスチャーで黙らせて、そのまま去っていく。
その一瞬、姉から出入り口の方へ振り返ろうとした一瞬に俺と目があった男は、にっこりと笑みを浮かべた。
嘲笑よりも艶やかで、艶笑よりもバカにしたような笑い方。
彼は俺に何か伝えたかったのだろうか…?
「眠れない…」
いつもなら寝ている時間にちっとも眠気がやってこない。
あきらめて、俺は掛け布団を押しのけ起き上がる。
流れる空気に恋い焦がれ、立ち上がって窓を開ける。
ゆるりと風が流れ込み、火照った肌の熱を奪う。
長く、ふーっと息を吐いても、高ぶる感情が抑えられない。
アイツが向けた真剣な眼差しが蘇って、戸惑う。
「お前が好きだ。この世の誰よりも」
不意に告げられた言葉。
親友だと思っていたアイツから、突然の告白。
「嘘、だろ?」
そんなバカなことがあるわけない。
何か気の迷いでも…。
だが、俺の楽観的憶測は簡単に否定された。
手首を捕らえたアイツの手に力が込められる。
「こんな笑えない冗談、言うわけないだろーが」
茶化すように笑ってもなお、目の輝きは真摯だ。
俺が苦しまぎれに笑ってみても、ヤツは揺るぐことなく見つめてくる。
…バカだよ、お前。
俺が困るの分かってて、お前の想いを受け入れられないのが分かってて、逃げ道だけを塞ぐのかよ。
俺には重すぎる想いで。
「…ムリに決まってるだろ?
俺にとってお前は親友だ。他の誰にも代わりは出来ない親友でしかないんだ。
大切だけど、それは友愛で、恋愛じゃない」
この時、アイツの表情はかたまった。
…分かっていた結末だろ?
それなら、そんな悲しそうな目をするなよ。
俺が、悪いコトしてるみたいじゃないか…。
俺は拘束が緩んだのを機にかたまるアイツを残して走り去ってきた。
今は中天より西にある月がまだ東から出てきた頃のことだ。
夜闇にポッカリとまん丸な穴が開いているような満月。
家々の明かりが消え、ひっそりと朝を待つ今頃の時間は、月も星々もこんなにも明るい。
父の昔話で聞いたこともこんな風に月が綺麗な夜だったのだろうか。
父が語った昔の話。
昔、父の営む酒場の常連だった美しい娼婦が、部屋で眠るように死んでいたのだという。
首元に二つの穴のような傷跡があり、死因は明らかな失血死。
だが、彼女の横たわるベットの上に一滴の血も落ちていなかった。
街の治安部隊は、不可思議な事件だと言うだけでその捜査を放棄した。
だが、その前日に父は見ていた。
彼女が真っ黒な出で立ちの男と連れだって出ていったのを。
誰に言われるでもなく、父はその男こそが犯人であると確信したのだという。
「吸血鬼にだけは惑わされるな」
父がよく言うセリフ。
本気なのかどうか幼い頃は半信半疑だったけれど、昔語りを聞いた今では本気だと分かる。
姉にしつこく言って聞かせるのは、父がその娼婦の死を悔いているからに他ならない。
幸せそうに笑って去ったその人のことを少なからず父が気に入っていたということなんだろう。
そして、父はそのセリフを俺にもくり返す。
男に告白されるような容貌を持つ俺を血迷った吸血鬼が連れ去るとでも思っているのだろうか。
それとも、そんな奴について行ってしまいそうだからだろうか…?
窓から身を乗り出して、空を見上げた。
いつも通り、星は明るい。
変わらぬ空、それなのに、俺の周りは一変してしまった。
明日からは、アイツとバカな話をしたり出来ないだろうから。
他にもいる友人達とアイツとでは天と地ほどに信頼度が違う。
そんなアイツが離れていくと思ったから、俺の心にあの闇夜の満月のような大きな穴が空いているのだろうか。
寂しくて、空を睨み据えた。
日常の普遍を望んでも、もう遅い。
アイツと俺の関係は、一生、かけがえのない親友のままだと思っていた。
それなのに、なぜ変わってしまうんだろう…?
「何やってんの?」
不意に聞こえた声。
俺は驚いて、辺りをきょろきょろと見回す。
だが、誰もいない。
…空耳、か?
「横じゃなくて、上」
またしても聞こえてきた声と同時に黒いシルエットが俺の目の前に現れた。
くるりと前宙をして目の前に身軽く降り立ったのは、闇色の髪を肩より長く伸ばした長身の青年。
彼の目の色は、俺の記憶に焼きついたあのスカイブルーだった。
「どこから…」
「屋根から」
青年は上を指さして首をかしげてみせる。
現れた方向には確かにそれしかないが…。
「そうじゃなくて、何で、こんな所に?」
作品名:変奏曲-First Impression- 作家名:狭霧セイ