小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

夜行譚5-祈念ー

INDEX|2ページ/3ページ|

次のページ前のページ
 

僅かな助けにも縋りつく思いで男が僧の言葉のままに小さな池を覗き込むと、そこには、ばしゃばしゃと叩きつける水飛沫にに揺らめき歪みながらも、微かに人影が写っていた。
それは、池を覗き込んだ男の顔形であるはずだった。
ー…これは
目を凝らしてその影を見つめた男は大きく唸り声をあげた。
ー…これは、これは…これが、おれ…?
水面に写っていたのは、おどろおどろしく歪み、引き攣れた男の顔だった。
それは既に人と呼ぶにはおぞましいほどの風貌。異形の姿であった。
ーお主は今、天狗道へ足を踏み入れておる
ー天狗道…
ー救われたいか
ー…おれが、このおれが天狗道…外道…だと…
僧の言葉にも最早男は反応できなかった。
己の中に押し込められた膨大な知識が渦を巻いて叫び続けていた。
天狗道、それは六道の輪廻からも外れた魔界、そこへ踏み出すことは、もはや人としての生を生きることは出来ぬということだ。
天狗道に落ちた者には救済の手段すら無い。
永遠に続く暗い道を行くしか無いのだ。こんなに、こんなに飢えたまま。永遠に。
ーいやだ、いやだ、いやだいやだ…!!!
男は身悶えした。この苦しみが永遠に続くことなど、死という終わりすら訪れないのだと、それが己の身に課せられた事実なのだと、認めることがひどく恐ろしかった。
いやだいやだと子供のように泣き喚く男の前に、いつの間にか前栽まで降りてきていた僧が立っていた。
雨は、僧にも降り注ぐ。白い着物が見る間に濡れて、斑に色濃く染まっていくのを、男はぼんやりと見上げた。
滂沱の涙が、雨が、上向いた男の頬を伝う。
その顔を見つめ、大きく溜息をついて、僧は懐から一冊の書を取り出した。
ーこれをやろう
そしてそれを男へと差し出す。
震える指先でそれを奪うように掴んで、男は脱兎の如く駆け出した。
前栽を踏み拉き、門に肩をぶつけ、それでも一度も振り返らないままひたすらに走った。
走って、走って、ついに身体が言うことを聞かなくなり、足が縺れ倒れこんで起き上がることさえ出来なくなったそこはどことも知れぬ山中だった。
ザァザァと降る雨を飲んで、焼き切れそうなほどに熱い息を吐く喉を潤す。
しばらく夢中で雨を啜り、ようやく一息ついた頃、腕に抱えた書のことを思い出した。
雨に濡れて重く膨らんだ書。その張り付いた表紙を、恐る恐る捲る。
ここに答えが、捜し求めた答えがあるのか。
それとも、救いの道があるのか。
震える指先で、何度も失敗しながらも男はようやく表紙を捲くった。
そこに書かれていたものは

「虚空」

黒々とした墨で記された、たった二文字の言葉。
続く紙面を繰るも、現れるのは白紙、白紙、白紙…最後の一枚までも白紙のまま。
呆けたように白いだけの書を見つめていた男は、やがて小さく背中を震わせ始めたかと思うと、クツクツと笑い声を零しだした。
ークッ…ハハハハ!ハハッ…!
笑い声を上げながら、書に爪を立て、引き裂き、千切る。
濡れて地面に張り付く紙片を踏み拉き、泥ごと掴み、手当たり次第に投げ散らす。
癇癪を起こしているだけだ。自分でも、それはわかった。けれど、止められなかった。
恐らくこれはあの僧がくれた最後の機会だったのだろう。
虚空。それは無限大の虚ろであると同時に、それを満たす無限の智慧でもある。
ただ白いだけの紙面。そこに見出すべき世界。
男は僧の意思を確かに理解した。理解することが出来た。
でも、それだけだった。
男はそれ以上の何かになることは出来なかった。
白い紙面は、白い紙面に過ぎず、男に新しい智慧を与えない。
ー知識だけ、記憶だけ、それだけだった。おれの中には。
ー貪って貪って、最後に辿りついたのは空っぽの虚ろ。
ーそして残ったものはこの空っぽを満たそうとする欲求だけ。
ー途方も無い飢餓だけ。
肩で息をして、もはやただ立ち竦むことしか出来ない男に、容赦なく雨は打ちつける。
ザァザァ、ザァザァ
ザァザァ


**************************************************************************


「観如様」
雨の前栽に佇んだままの僧の背中に、高い声がかけられた。
「お身体に障ります」
濡れた己の身体を気遣う優しいその声に、僧はにこりと笑んで振り返る。
その視線の先には、渡廊にちょこんと座り込んだ幼い子供の姿があった。
「おお、春祝、お前こそこんなところで風に当たってはまた熱が上がる。室へお入り」
「観如様も」
「ああ、わしもすぐに入る。これ、着替えを持ってきてくれんか」
僧が室に控えた小坊主に声をかけると、予め用意されていたのかすぐさま替えの着物が用意された。
着替えを終えた僧が室に戻ると、先ほどの子供が礼儀正しく座っていた。
春祝と呼ばれたその子供は、齢十にもならないであろう。
細く頼りなげな白い身体には不似合いなほどの利発さを湛えた瞳で、僧を見つめていた。
「観如様、先ほどの人は…」
「ああ、あれは…」
僧は春祝の前に座り、小坊主の差し出した白湯を飲みながら口を開いた。
「あれは、狭間にある者じゃ」
「ハザマ?」
「そう…あの者はあの時魔物と神との狭間にいたのじゃ。あの者のことは知っておるか?」
「はい、この世に知らぬこと無しと評判の法師様ございましょう」
「そうじゃ。確かにあの者の知識は恐ろしく広く、その知識量だけならば日の本に敵うものはおらなんだろう」
ふう、僧は白湯の器をゆっくりと手の中で摩り、その温もりを掌全体に塗りこめる様にした。
あの男の瞳に宿った狂気から伝わった底冷えが、まだ澱のように体内に淀んでいる気がしていた。
「しかしあの男には驕りがあった。己の知識に慢心していた。それでは、あやつは天狗道に堕ちるしかなかった」
「だから観如様がお出でになられたのですか?」
「うむ…しかし揺さぶりをかけることしか出来なんだ。揺れに揺れて、その結果、天狗道と天道と、どちらに転ぶかはあやつ次第…」
「先ほどお渡ししていた書は…」
「ああ、あれもな、あれもただの切欠に過ぎぬのだ。あやつになら、その意味を汲み取ることは出来るじゃろう。しかし、そこからは己次第なのじゃ」
「…あの方は、どちらを選ぶのでしょうか」
「…さぁのう…天狗になって永遠に智を探し求め続けるのか、虚空蔵菩薩となって普く智を導くのか…」
僧はゆっくりと最後に残った白湯を飲み干した。
春祝は、ただ雨の降る音を聞いていた。
ザァザァ、ザァザァと降り続ける雨は、いつまでも止む様子を見せなかった。


********************************************************************


白蛇の住まう湖の畔。
さわさわと気持ちのいい風が抜ける木陰で虚空はふと目を覚ました。
「懐かしい夢を見たね」
さあさあと風に揺れて波立つ水音がその思い出を夢として蘇らせたのだろうか。
記憶力の確かな虚空の夢は、色も、音も、匂いまでもがまるで現実であるかのように明瞭だ。
当時の感情も胸に蘇りかけるが、フンと小さく鼻を鳴らして虚空はそれを追いやった。
「なァに、なってみれば外道とてそんなに悪いものじゃないさ」
作品名:夜行譚5-祈念ー 作家名:〇烏兔〇