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夜行譚5-祈念ー

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洗礼なのだ。
男は立ち尽くしたまま、両腕を大きく広げた。
何も持たぬ手に、ばたばたと大きな音を立てて雨滴が水流のごとく降り注ぐ。
全身を雨に洗われながら、男は空を仰ぎ見た。
どんよりと重い雲に覆われた空を視界に納められたのも束の間、
開いた瞳の上にも容赦なく降り注ぐ雨滴は、瞬時に男の視界を奪う。
反射的に閉じられた瞼の裏の闇を眺めながら、男は引き攣るような笑みを浮かべた。
無だ。
虚無だ。
結局、何一つ無い。
この手の中にも。この目の内にも。
残ったのは、ただ雨に濡れて重く沈むこの身体だけ。
そして、残滓のようにこびり付いて剥がれない渇望だけ。
降りしきる雨にしとどに濡れても、決して満たされることの無いそれは、
凍えるほどに冷え切った肌とは相反する熱を、体内で燻らせ続けている。

「やれ、浅ましい」

男はそう呟いて、笑みを深めた。
自嘲を含んだ唇は、歪んだ弧を描く。

「諸行無常の教えも理も、言葉を知ったとて身体に渡らせなけりゃあ、意味が無いものをこの始末」

ザァザァと、雨は全てを濡らし、その表面を削り取って押し流してゆく。
雨に洗われるごとに、男の表面からも確実に何かが奪われていた。
それを惜しむように、男は己の頬を辿る細い水流に指先で触れてみるが、捉えることの出来るはずも無い。

「全く、浅ましいもんさ」

凍えた指先をそっと見つめる。
さっきまで、黒く汚れていた指先も、今やただ蝋のように白いだけ。
流されていく。何もかも。雨によって流されていく。

「それでも」

溺れる者が一本の藁に縋る強さで、指先を握りこむ。
その手の中にあるものは掴み所の無い水滴だけだけれど。

「それでも、悪くは無いさ」

雨は降り続ける。
その終わりなど、感じさせぬまま。
どんよりと曇った空の下、どこへ続くとも知れぬ一歩を、男は踏み出した。


********************************************************************************


始まりは何だったのだろう。
男はかつて神童と呼ばれていた。
言葉を覚えると同時に近所の坊主が読む経を真似始め、あっという間にそらで唱えられるようになった。
文字を覚えると同時に孔子を習い、手習いついでに十三経を書き覚えた。
一度聞いたこと、一度目にしたものを忘れることは無く、その知識は日を追うごとに増えていく。
十を数える前に坊主の薦めに従って寺に入り、そこでもまた膨大な知識を蓄えた。
寺には一般庶民の手には入らぬ貴重な書物が山とあり、己の無限に広がる脳内に知識を詰め込むことに快感すら覚え始めていた男は、夢中になって書物の山に埋もれた。
男の噂を聞きつけて、いつからか日毎訪れるようになった坊主だの、陰陽師だの、時には帝の使者だのが持ち込む疑問に書物の山の中から答えを投げ続ける日々。
そうこうするうちに男の名声は、都に響くものとなっていた。
世の中に知らぬこと無し、と噂される男の下には、疑問を抱え教えを請う為の来客の他に、自らの知識と男の知識とを比べんとする者も多く押し寄せたが、それら全てを圧倒的な知識量で捻じ伏せて、
男は、慢心した。
己の脳髄を満たす知識に浸り、ただ満たすことに耽溺した。

ある日、そんな男の元へとある高僧が訪れた。
老いぼれて過去の記憶もあやふやな僧を男は見下し、冗長な話を聞くとも無く聞いていたが、ぱしり、と突然響いた硬い音にはっと視線を僧へとやれば、先ほどと同じ穏やかな表情の僧が緩やかに首を振っていた。
ー足りぬ
そして一言そう言った。
ー足りぬとは?
当然そう返した男を、僧は垂れた瞼の下から真っ直ぐ見つめて続けた。
ーお主にはまだ足りぬ。何も知らぬことは無いと思っておるのであろうが、まだまだ…
ーそれは、どういうことだね。おれの知識に欠けがあると?いや、確かにまだ知らぬことはある。現にそれ、ここに積んである書はまだ未読なのだ。しかしそれは今日明日中に読み終わる。
ー足りぬよ。
ーそう、日の本にはまだおれの知らぬ書もあろう。だがおれはいつかそれだって読んでしまうのだ。ここには日の本中の書物が寄せられるのだから。
ーそれでも、足りぬ。
ー確かに知識の発信地は唐だ。そこにはおれの知らぬ書など抱えきれぬほどあるだろう。しかしそれとて遣唐使にもなって唐へ渡れば全ておれの知識となるのだ。それでもー…
ーそれでも足りぬ。
ぱしり、僧は膝を掌で打つと、そのまま立ち上がり室を出て行く。
ー待て
ー足りぬとは
ー何が足りぬ、おれの何が
慌てて書の山を崩し追いすがる男に、僧は振り返りもしないまま答えた。
ー足りている者は己に足りないものも知っている。それを知った上で足りているのじゃ。お主は、それを知らぬ。それが足りぬ。

その後、男は以前にも増して貪欲に知識を求め始めた。
これまではただそこにある知識を吸収するだけだったが、それからは己に足りぬものを書の中に求め続けた。
書の中には初めて見聞きするものも山ほどあった。
今までならそれは確かな満足とともに男の中に詰め込まれたのだが、僧と出会ってからは男がいくら知識を得ても、
ー足りぬ。
というその声が頭に響いて、知識を得れば得るほどに焦燥が募った。
足りぬ、足りぬ。だが、何が足りない?
ほとんど生まれて初めて感じた疑問符に男は煩悶した。
どれだけ頭の中の知識を弄っても答えは見つからない。
どんなに新しい書物にも、どんなに古い巻物にも、答えは書かれていない。
男は昼も夜も無く書を読み漁った。ただ只管に文字を追い続けた。
その鬼気迫る様子に、いつしか来客は絶え、同門たちさえも近寄らなくなっていたが、男は構わず書に耽った。
そして、手に入る最後の書を読み終えて、それでもそこに己の欲する答えを見つけられず、男はー…出奔した。
ざぁざぁと降る雨の中を、夢中で駆けた。
幾日もまともに飯も食わず、動いてもいなかった体は萎えて幾度も倒れ転げたが、その度に這うように起き上がり、また駆けた。
男を突き動かしたのは強い焦燥、そして飢餓。
脳髄の空腹が、男の足を前へ、前へと押し出して、辿り着いた先はかの高僧の住まう寺だった。
開かれたままの門をふらふらと潜り、当ても無く前栽をふらつく男に、待っていたかのように声がかけられた。
男がはっと声した方へ顔を向けると、前栽に臨む渡廊に、高僧が立っていた。
ー…無様な姿よの
突き放すような言葉に、男は震えた。奮えた。
ー…誰のせいで…っ!
そう叫んだつもりが、幾日もろくに音を発することさえしていなかった喉から出た声は酷く掠れて哀れな響きですらあった。
雨音に掻き消されそうなほどにか細いその声を、だが僧はきちんと聞き取ったらしい、もしくはその返しを予想していたのかもしれない。
静かな声、しかし雨音を擦り抜けるようなその音は、男の鼓膜に突き刺さるように届いた。
ー結局、何も得なんだのか。哀れ、哀れ。お主、己の姿を見てみよ。
そうして僧が指差したのは前栽に据えられた小さな池だった。
作品名:夜行譚5-祈念ー 作家名:〇烏兔〇