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森の奥のこども

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 先に折れたのはヘイゾウの方だった。投げ遣りな言い様で、くるりと踵を返す。

 「おれの名前は孫じゃのうて…」
 「そんなもん知りとうない。わしには関係のない話じゃ」

 切り付けるように吐き捨てて、ヘイゾウは小さく唇を噛み締めていた。背後でざわりと草叢が蠢く気配が伝わって来る。振り返れば、もうそこには神の姿はなかった。






 「何十年ぶりの家じゃろうなぁ」

 然程感動したようでもない平坦な声で、ヘイゾウが呟く。古ぼけた家をぼんやりとした眼差しで眺めながら、低い垣根越しに庭の池を覗き込んだりしている。

 「ありゃカヨコかのぉ」

 そう言って指差したのは、小さな鶏舎の中でコッコッと密やかな鳴き声を立てている鶏だ。鮮やかに赤い鶏冠が目に眩しい。

 「わしが雛から育てとった鶏じゃないかのぉ。縁日で買った家畜じゃったが、なかなか元気に育って、わしの誕生日に初めて卵を産んでなぁ」

 鶏の事を語っているヘイゾウの顔は、その時ばかりは輝いていた。何十年も前の記憶に浸るように、目を細めて、唇を緩めている。

 「おれらは鶏に名前なんか付けとらんで」
 「―――ほぉか、そうじゃよなぁ。よう考えてみれば、何十年も鶏が生きとるわけがないんじゃ」

 目が覚めたようにヘイゾウの顔から表情が消えた。のろのろと遅い足取りで玄関口から、知ったように家の中へと入っていく。人の気配に気付いたのか、母親が「誰か来たのー?」と奥から顔を覗かせてきた。割烹着を身に付けたまま、柔らかな笑みを浮かべている。

 「と、ともだちが来たんじゃ。うちで遊ぶけぇ」
 「居間にせんべいが置いてあるけぇ、出してやり。おやぁ…」

 ふとヘイゾウの足元に目を落して、母親が眉間に皺を寄せた。

 「裸足で遊んだのかい? ちゃんと足洗わんといけんよ」

 頭に巻いていた手ぬぐいを取って、甲斐甲斐しい仕草でヘイゾウの足を拭う。ヘイゾウはぽかんとしたまま、されるがままになっている。母親が調理場に戻っても、ヘイゾウは気の抜けた様子で調理場の方を眺めていた。

 「どうしたんじゃ」
 「ありゃぁ…わしの娘かの?」
 「違うで、じいちゃんの息子はとうちゃんじゃ」
 「ほぅか…わしの息子は随分と器量の良い娘を嫁っ子にもらったんじゃのぉ…」

 ヘイゾウの唇に、薄っすらと愛しさにも似た笑みが滲み出る。込み上げてくる感情を抑えるように、ヘイゾウの指先が着物の胸倉を握り締めていた。

 「――わしの息子はどこにおる」
 「とうちゃんは畑にいっとると思う。そろそろ稲刈りの時期じゃけぇの」
 「良い嫁っ子もらって、畑も持って、子宝にも恵まれて……わしの息子は幸せもんじゃ」

 そう呟いた瞬間、ヘイゾウの顔がくしゃりと歪んだ。泣き出しそうで今更泣けないという切ない表情。苦しそうに咽喉を一瞬引き攣らせて、「わしは息子の顔も名前も知らん」と呟く掠れた声が聞こえた。

 「得るはずで得ることが出来んかったもんを突き付けられるようで、堪らん。わしには耐え切れん。もう何も見とうない」

 咽喉の奥から引き絞るような声を発したと思うと、ヘイゾウは途端駆け出した。あっと驚きの声を上げる間もなく、風のように玄関を飛び出す。慌てて追いかければ、玄関から直ぐ出たところにヘイゾウの背が見えた。ヘイゾウが呆然とした顔で何かを見詰めている。その視線の先には、縁側に座り込む〝祖父の平蔵〟の姿があった。今日は調子が良かったのか、縁側でうたた寝でもしているのだろう。平蔵は、殆ど目を閉じた状態でうつらうつらと船を漕いでいる。その皺々になった皮膚、薄くなった頭髪、骨と皮になった自分の未来を見て、ヘイゾウは唇をわなわなと震わせていた。

 「あれは、わしか…?」

 自問自答するように呟いて、ヘイゾウは覚束無い足取りでその場から離れた。数十メートル歩いたところで不意に立ち止まって、ヘイゾウはその場にしゃがみ込んだ。両膝に額を押し当てて、咽喉から小さな呻き声を零している。

 「わしが失くしたものは大きい」

 そう呻いたと思うと、唐突に此方を見上げた。その瞳は潤みながらも、尖っている。

 「平蔵は優しかったか?」
 「え?」
 「御前のじいちゃんは優しかったか?」
 「…うん」
 「ならええ。それでええ」

 自身を納得させるようにヘイゾウは繰り返し、両手で顔を覆った。その小さな掌の隙間から、涙の粒がぽろぽろと零れ落ちていた。





 祖父は数日後に息を引き取った。ヘイゾウは森へと帰り、あの深い木々の中で神と共に暮らしているのだろう。あれから、森へは足を踏み入れていない。あの時の記憶は薄れ、何処か夢物語のようにすら今は思えている。それなのに、ヘイゾウが悲しげに呟いた最後の言葉だけが記憶の片隅にこびり付いて離れない。

 「これからはお前も一緒じゃ…」

 森へ置き忘れたものがあるような気がするのに、もう思い出せない。
作品名:森の奥のこども 作家名:耳子