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故に今

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 わたしが「創作」ということを始めたのは、一体いつからだったろうか。
 日記を書きながらわたしは、ふと、そんなことを考えた。


 わたしの記憶が正しければ、わたしは「書く」という作業が大嫌いな女の子であったように思う。小学校でのひらがなの練習も、漢字の書き取り練習も、ぐしゃぐしゃと、雑な字でかきなぐり、漢字の書き取り練習にいたっては、流れ作業という、なんの練習にもならないような方法で、宿題を片付けていた。
 そんなわたしにとって、作文を書くということなどはもってのほかだった。その時あった出来事を、順序正しく思いかえす。そして、いつ、どこで、誰が、何をした、どう思ったか、など、頭の中で整理しなおした後、文章にまとめていくことは、苦痛以外の何物でもなかった。
 そんなことを思い出して、わたしは思わずふっと笑ってしまった。今、毎日のように日記をつけていることや、時折、詩を書いたり、小説を書いたりしていることなどは、当時のわたしには、考えもつかないことだったろう。
 いや、考えたことくらいはあったと思う。今から、もう、二十年も経ってしまったが、わたしが小学四年生のころ、アンネ・フランク著の『アンネの日記』を読んで、日記を書いてみようと日記帳を買ったことはあった。しかし、買ったはいいが、いざ、日記を前にしてみると、何を書けばいいのか、まるでわからず、一行も書かないまま、結局は本棚の奥へと封印してしまった。ただ、本を読むことは大好きだったから、やはりそれが影響しているのかもしれない。
 わたしは、本を読んでいる間は、とことんその世界に入り込み、時間も忘れて本にかじりついた。友人が言うには、本を読んでいる間、わたしは誰になんと声をかけられようが、絶対に気づかなかったそうだ。
 そういえば、休み時間に本を読んでいたために、授業が始まっても気づかずに、ついには先生に本を取り上げられてしまったことがあった。授業が終わるや否や、先生のところへとんで行き、「ごめんなさい、授業と休み時間の区別はつけますから、本は返して下さい」と必死にお願いしたのは今となっては良い思い出だ。その時わたしの担任だった女性は、厳格な人だった。本読みたさにそこまでした当時の自分を思うと、思わず苦笑してしまう。自分では気づかなかったが、わたしはかなり無鉄砲な性格だったようだ。

 少し話がそれたが、小学五年生くらいになると、わたしは本を読み終えた後、その続きを想像してみたり、自分もお話の登場人物になったつもりで別の物語を考えてみたりするようになった。ノートに漫画を描き始めたのもこのころからだ。絵はとてもお粗末なものであったし、ストーリーもめちゃくちゃなものだったが、「創る」ということが楽しいことだと知った。自分の考え、感じたことを、漫画という形で表現することの不思議さというか、なんというか、うまく言葉にならないのだが、おぼろげだった自分の心が、形を持った時の胸の高鳴りが、わたしはたまらなく好きだった。それは、今も変わらないと思う。

 中学に入学してからも、わたしはたくさん本を読んで、考え、感じ、それを誰かに知ってほしいという気持ちは強くなっていった。新しい発見や考えを誰かと共有したかったのだ。そして、認めてほしかったのだろう。
 わたしは漫画を描き続けた。1つの作品として仕上げられたものは少なかったが、わたしにとっては作品を最後まで作り上げることよりも、描くということに意味があったのだと思う。確かに、誰かに共感してほしいと思う気持ちはあったが、読み手を意識したものではなく、自分のなかに渦巻くものを昇華したかったのだ。ただ、その思いを文章、言葉という形で表そうとは思わなかった。絵を描くのが好きだったから、というのもあるが、言葉では自分の思っていることがうまく表現できないというのがもどかしくていやだった。
 どんなにたくさんの本を読んで、表現や言葉を知っていても、自分の中の、形を持たない感情、思いにぴたりと当てはまるものが見つけられなかったのだ。




 しかし、あるとき、そんなわたしを「文章の創作」に向かわせる出来事が起きた。
 中学三年生の秋だったか、わたしが図書室で本を探していると、部屋の隅にある人目につかないテーブルに座る男子生徒に気がついた。そんな人目につかないところにいる人が目につくほど、人の来ない誰も読まないような本の棚にわたしはいた。誰も来ないからこそ、落ち着いて本が読めるわたしのお気に入りの場所だったからだ。
 わたしは座って何かをノートに書いている男子生徒を視界の端に入れながら、本をめくってみたり、意味もなく発行日や版数を見てみたりした。彼が何をしているのか、無性に気になって、わたしはそっと彼の近くに行った。他の人が見たら怪しい行動だが、幸いなことにそこは、人目につかない、図書室の隅、だった。
 近づいて良く見ると、彼はわたしのクラスメイトだったことに驚いた。だが、知っている人物ということで、わたしは彼に声をかけてみた。何をしているのか、と聞くと、彼は先ほどまで何かを書いていたノートを勢いよく閉じて、軽くこちらを睨んだ。そして、「何だっていいだろう」と言う。その反応に、逆に興味を持ったわたしは、なんとか頼み込んだ。彼はしぶしぶ私にノートを差し出した。
 ノートを開けてみると、そこには小説が書いてあった。主人公の少年と、ひょんなことで仲良くなった年下の男の子の物語だった。人の関わりと死をテーマに扱った話であった。決してそれは悲観的でも自虐的でもなかった。本当に、真摯な、切ない物語だった。
 読み終えてしばらくわたしは言葉もなかった。クラスは同じでも、あまり話したことのない彼が心の内にこのような物語を持っていたことに酷く驚いた。聞けば彼は、疑問に思ったこと、考えたことを文章にするのだと言う。そのままでは消えてしまう言葉を、文字にすることで残すのだ。
 そうか、とその時わたしは思った。まとまらなくてもいいではないか。ぴたりと当てはまる言葉がないのなら、そのことを素直に書けばいい。今の自分にとって大切なのは、以下に素晴らしい文章を書くかではなく、いかに自分の気持ち、考えを、形としてとどめておくか、なのだ。漫画を描き始めたときだって、上手い下手ではなく、表現することが楽しくて、嬉しくてそうして描いていたのではなかったか。ならば、文章も、同じことではないか。
 それから私は文を「創る」ことを始めた。小説も書いたし、詩も書いた。漫画は描き続けたし、挿絵として絵を描くこともあった。そして、本棚にしまってあった日記をひっぱり出し、つけ始めた。



作品名:故に今 作家名:ぎんこ