限り無く夢幻に近く
無限
電車は相変わらず走っているのに、その車両は無音だった。
ガタンゴトン、という音すら聞こえてこない。まるで水を打ったような、振動させるための空気が緊張しているような、そんな静寂。不快なものではなかった。むしろ心地よく、神妙な気持ちになる。
と、視界の端を何かが横切る。
「……青白い光?」
扉の先では無数の光が舞っていた。音もなく光の尾を引いて暗闇を彩る。空中に弧を描きながら、幽かな灯が行き交っている。
すぐ横でツカサがすいと手を翳す。人差し指の先に留まる何か。
「ホタルだ。どうして、こんな電車の中に」
灯っては消え、光っては見えなくなる。その静かさに思わず息を潜める。
真似して伸ばした指に一匹の蛍がとまった。儚いと思った光は彼の顔を力強く照らした。儚く、かそけく。それでいて脳裏に焼きつく色。
「実際に見るのははじめて?」
「小さいころに何度か。ゲンジだっけ、ヘイケだっけ?」
「ヘイケ。ゲンジだったらもう少し大きいのにね」
手の甲をそろそろと這っていく小さな光。俺たちは声を発するのも忘れて、その鮮やかな輝きに目を奪われる。
やがてそれは、すぐに指先を離れて、窓の隙間からふわりと闇に消えていった。
蛍との別れを惜しみつつ扉をくぐると、そこもまだ夜の続きだった。
「うわ……!」
外も暗い、中も暗い。
赤い提灯の光がおぼろげに闇を照らした。車両の座席が取り払われて、両側にずらっと提灯が下げられている。
「縁日みたいだな」
同じ夜の景色でも、先刻と今では全く種類が違う。蛍の光が静なら、この輝きはまさしく動。
そういえば、もうすぐ家の近所でも夏祭りがある。
今年は行ってみようか。久しぶりにアキトを誘って。
どこか遠くで太鼓の音がする。
山の向こうで何かが光った。少し遅れて、ドーンという破裂音。心臓を直接震わせるような響き。身体全体がその音と共鳴していた。
「ツカサ。見てよ、花火だ」
また遠くで小さな菊が開いた。
体の奥底を叩く、心臓をしびれさせる賑やかな響きなのに。こうして離れているだけで、どこか淋しいのはなぜだろう。
呼び起こされるこれは、幼い日の記憶。
カランカラン。
足の指の付け根が痛い。
右手には金魚の入ったビニール袋。左手はしっかり母と手を繋いで。
カラコロ。
透明な旋律がどこからか響いてくる。
つられて仰ぎ見る。父さんが飲むラムネの音だ。ガラス玉の転がる、涼やかな音色。
ほら、とビンを渡されて、恐る恐る口をつけた。しゅわ、と、びっくりするくらい口の中が痛かった。
カラコロ。しゅわしゅわ。
ぼんやりした明かりの中、手を引かれて歩く。
何もかもが初めてで、輝いて見えた。いつまでも終わってほしくない。そう思った。
夏の全てが体の奥に浸透して、静かに俺を沸き立たせた。
どうしてだろう。どの景色も覚えがある。紅葉も、雪景色も、花見も、お祭りも。四季の欠片、あるいは、覚えのある憧憬。
それはとても重要なことだったのに、その時は気がつくことが出来なかった。