つくも神
「そうかい、お前さんあれを見たのかい」
のんびりとさえ聞える口調で、武井さんは言いながら
俺にコーヒーを入れた紙コップを渡してくれた。
「な、なんなんです。あれは」
おれはつっかえつっかえ聞いた、からからの喉に言葉が引っかかって
うまく出てこない。
どのくらい俺はへたり込んでいたのだろう。
時計の針は二時をさしていた。
武井さんが心配して見に来てくれなかったら、朝までへたり込んでいたかもしれない。
「つくも神ってしっているか?」
じぶんも紙コップを持って俺の前に腰を下ろしながら、武井さんは聞いた。
俺が首を振ると、武井さんはそうだろうなあ、と苦笑する。
「古くなった道具がなる妖怪のことさ。お椀に手足が生えたり、鍋釜が顔の人間の絵を
見たことないか?」
そういえば、社会の教科書にそんな絵が載っていた気がする。
「あ、あれがつくも神だというんですか」
「本当かどうかはしらねえよ。ただ俺はそう信じている。会社も人が作った道具みたいなもんだからな。
しかも、一人じゃない。大勢の人間がその中で働いてんだ」
「でも、ここは都心の一等地で、今は21世紀で」
俺の言葉に、武井さんの苦笑が深くなった。
「あんた、自分が見たものが信じられないのか」
「・・・・信じられません」
俺の言葉に武井さんは、さらに苦笑を深くする。
「まあ、無理もないさ。あんたは運が悪い。こんな経験をするのはめったにない。
あんたは多分波長があったんだろう。まあ、慣れれば気にならなくなる」
おれは千切れそうなほど首を振った。
冗談じゃない、あと一週間とはいえあの声を毎日聞かされたらおかしくなる。
そんな声なのだ。人間のようでいて人間とはどこかが完全に異なっていた。
「おれ、今日でやめさせてもらいます」
武井さんは頷いた。しょうがない、何回もあったことだ。
と顔にはっきりと書いてあった。
「会社には適当に言っといてやる。そうだ、一つ教えといてやる。
会社の声は若いのから年寄りまでさまざまだが、つぶれそうな会社は
皆決まってため息をつくんだ。何でかはしらんがな。だから、だれでもない
ため息が聞えたら、気をつけるんだな。来年からここのフロアにある会社に入るんだろ」
俺はもう一度首をふった。確かに俺の入社する会社はここにもオフィスがある。
でも、本社は別だ。
「きょ、今日は早退させてください。」