ひめごと
「びっくりしたねえ」
可奈子先輩が出ていったドアが閉まるか閉まらないかのうちに、あのひとはへらりと笑ってみせた。
「あんなタイミングってあるのね。ほんとにびっくりしちゃった」
「はあ・・・」
「可奈子、どう思ったかしらね」
「多分向こうもびっくりしたと思いますよ」
「そうね」
あのひとはやけに、嬉し気に笑んだ。
「私達のこと、あやしいって思ったかもね」
「・・・なんか、嬉しそうですよ」
「ふふ、でも本当、今頃そう思ってるかもよ。あの子意外とそういうこと邪推してネタにするタイプだもの。ふふふ」
「嬉しいんですか?」
「どうかしら」
陽はもう半分以上落ちていた。影の落ちた教室のなかで、彼女はほんの一瞬私に口付けた。
「加南ちゃんは、私と噂されたら嬉しくない?」
黒目がちらちらと揺れるのまではっきりわかるほどの距離だった。こんなに近付かれると、私はいつも締め付けられるような思いに捕われる。私は何度でも彼女に見蕩れてしまうのだ。美人は三日で飽きるなどというのは花を見たことのない蛾の戯言だ。美しい美しいと言っても、蛾のなかでは容姿が優れているというだけの美人しか知らぬ者の格言でしかないのだ。本当に本当に美しいひとというのは、いつでもはっとするほどの鮮烈さをもってこの目を奪うのだ。
私はゆっくりと、質問に答えようとする。頭の芯がぼうっとなって、気のきいた答えなど浮かばない。なにを気がきいているというのかさえわからない。
だからたぶん、あれは私の本音だったのだ。
「私が、男だったら、嬉しい、かも」
後から思えば、これだって充分に軽口として通じるものだったろう。それなのに彼女は一瞬、驚いたような顔をした。なにかひどい衝撃を受けたような表情を見せた。
「ふうん」
彼女は言った。
「そう」
ぱっと彼女が離れていった。一瞬で、もう何ごともなかったかのように先程の席につき、本を手にとっている。私はひゅん、と寒さを感じた。間近なぬくもりが消えたせいかと気づき、ああ、ひとってこんなに熱を放っているものなのか、と思う。
彼女になにか言わなくてはと思った。けれど私が口を開くよりはやく、彼女の声がする。
「加南ちゃんは、私のこと好きじゃないのね」
私は驚く。彼女のその言葉に、ひどくびっくりする。とっさにそんなことは無い、と言おうとする。
そして、自分が先ほど何を言ったのか。それがどういう意味を持つ言葉だったのかに、ようやく気づいた。
唇を強張らせた私を、あのひとは見ない。視線は手の中の本に落としたまま、声だけで私を静かに追い詰める。
「否定しないのね」
はらりと、白い指がページをめくる。本を読んでいるのだろうか、こんな会話をしながら。同時に、自分の手の筆は先刻から動きを止めていることを知る。
「先輩はどうなんです」
私は尋ねる。言いながら後悔しているような質問だ。でも、そのときは他にどう言ったらいいのかわからなかったのだ。
私は突然始まった、この修羅場的な雰囲気になかば怯えていた。暖かく部屋に満ちていた親密な空気達は、一体どこへいってしまったのだろう。いつのまに、こんなことになってしまったのだろう。
「私がきいてるのよ、質問に質問でかえさないでよ」
彼女の声が、珍しく冷えている。私はいよいよ焦った。普段の彼女は、不機嫌をけして声には出さない。言葉や表情で不満を訴えることはあっても声音は変えず、むしろよくない言葉を発するときにはことさら可愛らし気な口調をつくってみせるようなところがあった。いわく、言葉よりも表情よりも、声に可愛げがないのは一番女の性格をきつくみせるかららしい。だから自分はどんなときでも、声色に気をつかうのだと言っていた。それが真実かどうかはともかくとして、そういう風に自分を演出すると決めているひとが発する可愛げのかけらも無い声は、怖い。普段との落差の分だけ、その刺々しさは一層厳しく思われた。