ひらきこもりの方程式
その場から逃げた僕がたどりついた先は屋上だった。空が広い。夕日がまぶしい。そう、視界がかすむのは赤い陽が美しすぎるからだ。前がよく見えないのは太陽のせいだ。カミュの『異邦人』の主人公は太陽がまぶしかったから殺人を犯した(その他の作品的意図は今は論じたくない)。太陽は人間に対してそれほどの影響力があるのだ。だから僕の目から涙がこぼれでているのだって太陽のせいであって、決して失恋したからではない!
僕は屋上の端に膝をかかえてうずくまった。
失恋。しつれん? ばかな、僕は恋を失ってなどいない。少なくともまだ失ってはいない。恋を失っていないからこそ
こんなに苦しんでいるのだ。彼女が他の男を恋慕していると知ってこんなにも胸が痛いのは、今まさに彼女に恋をしているからだ。失恋などしていない。そんな日本語はあてはまらない。
(ただ、完全に見込みがなくなっただけだ)
しばらくして、屋上の扉がきしむ音がした。僕ははっとして顔を拭った。こんなオープンスペースで号泣しているところを誰かに見られたくはない。しかし涙はとまらず僕の袖をぬらし続ける。僕は諦めて顔を扉と反対の方向にそらしてうつむいた。知らない相手になら醜態をさらしたところでたいしたことではないと思い込もうとした。
それなのに。
「ブンガっちゃん! ……、え、泣いて、んの?」
ーー 誰のせいだ。
僕はその場から一瞬本気で飛び降りたくなった。なぜ君が僕を追いかけてくるんだ!
「……ブンガっちゃん、あの、さっきのことだけど」
気遣うような声音。少し怯えたような、困ったような色のまざったそれが、僕の頭に血を上らせた。なぜ君がそんな声を出すんだ!そんな必要はないだろう!
僕は彼女が好きで、彼女は僕を相手にしていなくて。でも君は彼女に好かれていることがわかって。そう、そこに斉木君に困る要素は何もないはずだ。彼は彼の通常運転通りにもてた、それだけだ。『お前の好きな女、俺に惚の字なんだってよ、俺はそんな気ねえのに参ったね』ということだろうか。そんな羨ましすぎる困り事は、追いかけてまでわざわざ僕に伝えてくれなくったっていい。
けれど、かっときたところで、斉木君に僕がとれる態度などひとつだ。
「きっ、きにしてないから!!」
泣きながらの発生は、吃った上に裏返った。しかも必要以上に大きく響いた。
「っていうか、僕、僕ごめん、のぞくつもりじゃ」
「あ、いや、そんな」
「斉木くん…なんでここに、きたの」
みつた、さんは、という声はもう言葉としての形を為していなかったかもしれない。泣いた上にこすったせいで目元が随分熱をもっている。頭に上った血もあつい。ひどい顔をしている自覚はあった。けれど僕は出来るだけまっすぐ斉木君に向かい合った。
夕日に照らされた斉木君は当惑したように僕を見た。僕はその瞳をじっと見つめ返した。こんなにも真正面から斉木君を見たのは初めてかもしれない。人と目をあわせるのが苦手な僕は、いつも相手の首や耳のあたりを見ていたのだ。けれど今はなぜか平気だった。斉木君の瞳の光彩の揺れまではっきりと見る。おそらく先ほど、彼に恋を告げたときの彼女もそうしていたように。
恋敵。 ふいにそんな言葉が浮かんだ。
この美しい同級生が、僕の恋の敵。今までにも幾人もの少年の心の恋人を、そうと意図せず奪ってしまったのだろう男。その男が整った顔立ちに曇った表情をのせて僕と相対している。 ーーーと、
ふと、斉木君は自分のシャツの袖をひきだすと、僕の頬をそれでぬぐった。どう反応していいか分からずされるがままになっていると、彼はぽつりと呟いた。
「……泣く程好きだったなんて、思わなかった」
己こそが泣きたい、そんな表情で彼は言った。
「そんなに泣く程、誰かのことが好きって…、なんなの。ブンガっちゃんも、……光田さんも」
みつたさんないたの、と僕は呟いた。彼は一瞬顔をしかめ、けれどはっきりと頷いた。
「断ったんだ、俺。光田さんはブンガっちゃんの好きな子だし、それが無くたって俺は彼女に特別な気持ちとか抱けないだろうと思ったから。気持ちは嬉しいけどつきあえないって、そしたら」
彼女の泣いたところを、僕は見た事が無い。以前、斉木君の部活の試合を見て泣いたと話には聞いた事があるけれど、ひょっとしたらその頃から彼女は斉木君の事が好きだったのだろうか。恋に流す彼女の涙は真珠のようだろうな、と僕は考えた。彼女もこの校舎のどこかで今この瞬間も泣いているのかもしれない。僕が彼女への恋破れて泣いていたのと全く同じように、目の前のこの男に愛を拒まれて涙する彼女。それはひたすらに哀れで儚いもののように思えた。
「そんなに好かれてるなんて知らなかった」斉木君はぽつぽつと、己に言い聞かせるかのように喋っていた。
「そんなにも…好きとか、俺は知らない。……全然わからない」
その言葉はまるで彼自身がひどく傷つけられたかのような悲壮さを持って吐かれたので、僕はまじまじと彼を見た。断る側の辛さというものもあろうが、まるで自身を罵るかのような苦悶の様子が垣間みれて、どきりとした。そういえば、とかつて斉木君が言った言葉を思い出す。
ーー かつて彼は恋を知らぬと言った。
恋とはどんなものかしら、そんな深層の姫君のごとき疑問を投げて、無垢なる魂を見せつけていた。
「ざまあみろ」
作品名:ひらきこもりの方程式 作家名:蜜虫