金星人の硝子
土曜日が来て、僕はキリとの約束を思い出した。しかしおそらく全ての用事を放棄して眠り続けているのだろうキリからはなんの連絡もなく、僕はどうしたらいいのかわからなかった。そこで僕はふらふらとキリのアパートに向かった。うろ覚えだが、アパートの場所は以前聞いたことがある。突然そこに押し掛けるのも迷惑だろうか、と僕は考えた。それは迷惑だろう、彼女は一人暮らしではないのだから。
しかし、いつもアルバイトの帰り道にキリと別れる場所に近付くと、そこにあるコンビニエンスストアに入っていくキリの姿が見えた。ああよかったと思って追い掛けて声をかけると、彼女はとても驚いたようだった。
「なんでこんなところに」
と彼女は言った。だって約束していただろう、でも君からの連絡がないから、と僕は答えた。すると彼女は美しい顔を顰め、僕を店の外に引っぱりだした。
「約束ですって?」
そうだよ、忘れちゃったのかい、と僕は聞いた。そして微笑んだ。僕は自分の記憶力に自信がないぶん、他人がなにかを忘れることに寛大だ。きっと彼女はあんまり深く眠り過ぎて、その前の出来事を記憶の器からこぼしてしまったのだろう。でもそれが彼女の眠り、嫌な出来事からこころを守るための逃避としての睡眠なのだろう。魔女に怒鳴られたショックとともに、僕との約束もうっかり一緒に忘れてしまったのだとしても仕方ない。
それでもう気分はよくなったの、と僕は訊ねた。あれからずっと眠っていたんだろう?キリ。と。
彼女は黙って僕の顔を見ていた。その表情はけわしいままに、ただじっと僕を見つめていた。ふとその視線が僕の後方に流れる。すると彼女の顔が変わった。
彼女の唇の端がつりあがり、目が細められるのを僕は見た。ああいい笑顔だと僕は思った。彼女の顔が近付き過ぎて見えなくなるまで、僕はその笑顔を見ていた。
彼女と口付けている間、僕は奇妙な感覚に囚われていた。そのとき急に自分の背中がむきだしになっているかのように思えたのだ。さらけだされた背中がひどく無防備で、傷付きやすいものに感じられた。その頼りの無さに思わず寒くなった首をすくめると、瞬間、視界が開けた。
そして僕は理解したのだ。これが恋だった。そうと知って、僕は目の前に広がるうつくしい顔に笑いかけた。これが恋なのだと思って笑った。それがわかったことが嬉しかった。そう、恋とは恋に他ならないものなのだ。執着や支配欲や、その他のどんな感情とも違う。恋は恋だ。恋とはなにか。それは不安と背中合わせの輝きだ。自分がひどく頼り無い、ちっぽけな存在だと考えさせられることだ。そしてその考えの他には、目の前の美しさだけが全てとなることだ。それは怖いことだ。そして怖いからよいのだ。怖いから魅力的なのだ。首すじに、ガラスを。つきつけられるその瞬間に背中をぞろりと駆け上がり、毛穴が開くあの瞬間。うなじにくいこむ痛みを想像するその気持ち。そのとき、僕は確かに待っているのだ。そのちいさなガラスのかけらが僕の皮膚を突き破って、僕の首すじにあのうつくしいひとの存在した揺るぎない証拠となって残るのを、即物的な痛みへの恐怖とは裏腹に、切実に望んでいるのだ。
ーー その瞬間の気持ちだけが、永遠に続く恋心の正体だ!
「ななちゃん」
ぞっとするような女の声がした。それは僕の背後から聞こえた。
「ななちゃん、なにしてるのななちゃん」
見られていた、そう思った。
「なにって、ねえ」
僕の目の前にいる女が、急に高らかに笑い出した。
「ねえ、このひと、わからないのよ。このひとにはわからないのよ!」
「ななちゃん」
「このひとにはわからないのよ、私と、あんたと、違う人間だってこと。わからないのよ!」
「ななちゃん、やめて。このひとは私のバイト先のお友達で::」
「あんたのお友達ですって!ちがうわよ、このひとは私の前の恋人よ!」
「なずな!」
それは雷鳴のようだった。
僕は目の前にいる女を見た。それはなずなだった。言われてみれば、それは確かに、間違い無くあのなずなだった。
僕は後ろにいる女を振り返って見た。それはなずなだった。そこにいるのも確かになずなだった。
あなたまだそんな風なのね、と目の前のなずなが言った。本当にあなたは私と付き合っていた頃からいつもぼうっとして鈍い男だったわ。
ななちゃん、なずな、やめて、なんなの、と後ろのなずなが言った。
だから言ってるじゃないの!このひとは私の前の男よ!となずなが叫んだ。
嘘、そんなわけない、だって彼はなにも言わなかったわ、私にそんなそぶりも見せなかった、となずなが戸惑った。
だからこのひとにはそういうのがわかってないのよ!私とあんたが同じ顔してることにも今まで気づいてなかったんじゃないの、信じられないけど、このひとはそういう男なのよ!となずなは苛立ちを隠さない。
嘘、嘘、そんなことありえないわ、恋人だったひとの顔を忘れるなんてこと、ないでしょう、となずなが僕に詰め寄った。
覚えてないのよ、となずなが吐き捨てるように言った。
覚えてるよ、と僕は言った。君はなずなだ。
じゃあ私と会った時、ななちゃんと似た女だと思ったの?となずなが言った。こんなにそっくりおんなじ顔の、他人の空似だって?
だから気づいてないのよとなずなが言った。このひとはそういうひとなのよ。
そんなのへんよとなずなが言った。
だからへんなひとなのよとなずなが言った。だからわかれたんじゃないの。
ひとのかおをおぼえられないのとなずなが訊ねた。のうにもんだいでもあるの。
そんなんじゃないわよね、ただきみはなにもかもどうでもいいのよねとなずなが嘲笑った。
私の顔とか私の性格とか私の好みとか私が君をどう思っているかとか私が目の前にいることとか、そういうのが、全部どうでもいいのよね。そう言う女はなずなだった。間違い無くなずなだった。じゃあもうひとりは誰なんだ?
そうなの?ともうひとりのなずなが言った。ぜんぶどうでもいいの?そういう女も確かになずなの顔かたちをしていて、僕はふと、さっき背中に感じた感覚はこの女の視線を感じ取っただけじゃあないのかと思った。
それにしてもふたりのなずなはとてもきれいだった。髪がつるつると日に輝いて、肌が滑らかだった。ただどちらもわらってはいなかった。それがもったいないと僕は思った。そしてどちらも僕に対して困惑したり怒ったりしているのが申し訳なかった。でも僕はどちらのなずなに対してもなにも悪い感情はもっていないし、彼女達になにか欠点があったとしてもなぜかそれを気にしないことができるだろうと思った。たとえ彼女たちがテレパシーで僕の心を覗くことができたとしても、僕には何の不都合もないだろう。僕は万人に向けてなにひとつ後ろめたいことのない人間では無いが、少なくともなずなに対しては知られてまずいような感情をもってはいない。ただきっと、僕の頭の中を覗いたらなずなは馬鹿ねと呆れるだろうけれど。