黒猫
門の手前で黒猫が飛び出して来るのに出くわした。奴はぼくと一瞬顔を合わせたが、中から「駄目よ、いらっしゃい」と厳しい声がするとしゅんとした顔をして、すごすごと引き下がって行った。あの声は桜井珠緒夫人である。
ぼくは門をくぐり、開け放しの戸から中を覗いて御免下さいと人を呼んだ。
「御免下さい、坂木ですが」
ややあって、奥の方から割烹着を脱ぎ脱ぎ、夫人が姿を見せた。うりざね型のまことに美しい顔が微笑むと、一筆書きの薄い唇がきゅっと持ち上がってぼくはくらくらした。夫人はこの方の気分には気づくふうもない、アラ坂木さん、と丁寧に頭を下げて半歩分脇に退いた。
「よくいらしたのね、どうぞお上がりになって。お帽子預かりますわ」
これはどうも、とパナマ帽を夫人に手渡しながら、ぼくは何気なく居間の方を見やった。人が出てくる気配はなかった。
仕方ないので桜井はまだお休みですかと聞くと、ぼくを通しかけていた夫人は振り返ってびっくりしたような顔をした。
「お約束でいらして?」
「エエ、今月の『世界』と、カントや、なんやかんやを借りることになってました。もしや奴は留守ですか」
「留守――そうなんですの――ええ、――鎌倉の辺りにしばらく行ってくるとか申しまして――」
夫人は思い出すように宙を見ながら言い、兎も角お上がりになって、お茶をお出ししますわ、と先に立った。珠緒さんのような気遣いの利く女性は今時珍しい、ぼくの妹など――いや、愚痴は言うまいが、しかし夫人と違うことは確かである。ぼくは靴を脱いで彼女のしゃんと伸びた背の後に続いた。
夫人がどうぞと居間の引き戸を開けると、どこに隠れていたものやら最前の黒猫がまたも転がり出てきた。どうやらこいつは、とんだきかん坊らしい。
「コラッ、またそんなに暴れて、いけない子だこと!」
猫は怯えるようにぼくの足の後ろに隠れ、甘えてズボンに体をこすりつけた。こうしてみると、悪戯は悪戯だがそれなりに愛嬌がないこともない。
なんとはなし猫に親しみが湧いて、ぼくはまあまあと夫人を宥め、かがんで猫の首をつまみ上げた。
「どうも貴女はこれで教育母さんの類のようですね。桜井に云々言う時より余程強気だ」
「お恥ずかしいわ、躾が行き届きませんで」
夫人の腕に返されると、猫はしばらくもがき、結局尻尾を情けなく下げてじいっと私を見ながらか弱くニャア、と鳴いた。白い長い指で黒い三角の耳の根本を撫でながら、坂木さんがお気に入りなのねえと珠緒さんはうっそり笑った。
夫人は座布団に胡座をかいたぼくの膝に猫を置いてやり、少し見ていて下さいましと言って台所に立った。茶でも入れてくれようと言うのだろう。
やっと自由を得たとでも言わんばかりにがりがりシャツを引っ掻く足の上の生暖かい生き物を、ぼくはしばらく面白くつつき回していたが、その内飽きて、何か言いたげに前足で叩かれるのをあしらいながら部屋を見回した。そうして箪笥の上に、一冊のノートを見つけた。
それは学生時代から桜井が好んで使っている型のノートで、立ち上がって手に取ってみると日記帳であるらしかった。彼はそういう方面ではまめな男で、遠出をしたからと言って日記を書かないことはないような輩だったので、忘れ物とはよくよく珍しいこともあったものだと思った。よほど慌てて出かけたか、それとも別のを持って行ったのかもしれない。
他人の日記帳を覗き見るというのは褒められた行為ではない。しかしぼくや桜井を始めとする昔馴染みの友人たちの間では、機が合えばそのような手段で互いを監視すると言うか出し抜くことに待ったをかけると言うか、情報をやり取りすることは暗黙の内に認められていた。そこに書かれている事柄が誇張を含み、あるいは実際でないとしても、ぼくらは友が相互に巨人であるを知ることによって、一種の切磋琢磨の手段としていたのである――それは学問に限らず、もっと俗人的なことをも含んでいたが。
ぼくは日記を開こうとして、その一瞬前に猫君にオイと声をかけた。
「いいか、君も覗き見の共犯だぜ。珠緒さんと桜井には秘密にしてくれたまえよ」
黒猫は言い終わるか終わらないかの内にせっかちに「早くしたまえ、ニャア」と鳴き、ぼくらは並んで日記帳を開いた。
桜井の日記は昔から、仲間連中に比べると淡泊だった。日付とその日の夕飯――蕪の味噌汁だのアジの煮付けだのと妙に美味そうなのが癪に障らないではない。珠緒さんは料理上手な人らしい――と行った場所、会った相手、読んだ本やその批評といったことが書き連ねてある。非常に淡々としている。
昔の桜井の日記には、もう少し感情的な文面が多かった。個人的だったと言うべきなのかもしれない。彼はごく簡単にあれが好きだこれが嫌いだといったようなことを書いた。いつだったか覚えていないが、覗き見た彼の日記に『坂木君は良い友だ。』と書かれていたことがあった。ぼくはさりげなくその数日後の日記に『桜井君は好ましい。全般においてである。』と書いたものだ。具体的に名前を挙げて人を褒めるのは、ぼくらの中でもなかなかしないことだった。
ぱらぱらとページを繰る内に、『鰹を食つた。初物は寿命が延びると言ふが本当だらうか。』と書いてあるのに行き会った。子どもっぽいことを書くなと思ってちょっと笑うと、横から黒猫が失敬なとばかりガブリと指を噛んだ。これはどうも気の荒い、人間くさい猫である。まるで桜井自身に横で咎められているようで、ぼくは微妙な気分になった。
「また珠緒さんに叱ってもらうぞ、猫君よ」
しかし桜井はいつの間に猫なぞ飼い始めたのだろう。ぼくと彼の間柄で水臭いものだが、ひょっとするとそれも日記に書いてあるかもしれない。
さらに日を進めると、『どうも最近食事に魚ばかり並んでいるやうに思える。』と贅沢なぼやきが現れた。
「『珠緒にたまには肉やら洋食はだうかと聞いてみたらば、お肉は最近高いンですのとの事。物価高騰の噂は聞かぬがさういふものなのだらう。』――成る程、君も相当おこぼれにあずかったと見える」
にやりと笑って撫でると、猫はまあ多少は、とでも言うように頭を振った。
その時台所の方から音がして、猫を飼う云々の話はまだ登場していなかったが、ぼくは慌てて日記を元の箪笥の上に戻した。ぼくが猫を転がして遊ぶ振りを始めたのと、盆を捧げ持った夫人が部屋に入ってきたのとはちょうど同時ぐらいだった。
夫人はぼくと黒猫を見て、仲がよろしいこととまたうっそり笑った。ぼくはなんだか気恥ずかしかった。
「やあ、どうもこれは、」
しどろもどろになっていると、夫人は礼儀正しくぼくの醜態を見なかったことにし、それでご本はどうなさいます、と首を傾げた。桜井は夫人には自室の本には手を付けないように言いつけているようで、それは夫婦にはよくある話ではあった。
ぼくが蔵書に手を突っ込んだからと言って、ましてその中の一冊や二冊をちょっと借りてみたからと言って桜井が怒ることはなかろうとは思ったが、なんとはなし早く家に帰りたくなって、ぼくはまた次にしましょうと言った。
「来月には奴も帰るでしょうから、その頃にまた来ます」
「本当に申し訳ないこと。御免して下さいね」
ぼくは門をくぐり、開け放しの戸から中を覗いて御免下さいと人を呼んだ。
「御免下さい、坂木ですが」
ややあって、奥の方から割烹着を脱ぎ脱ぎ、夫人が姿を見せた。うりざね型のまことに美しい顔が微笑むと、一筆書きの薄い唇がきゅっと持ち上がってぼくはくらくらした。夫人はこの方の気分には気づくふうもない、アラ坂木さん、と丁寧に頭を下げて半歩分脇に退いた。
「よくいらしたのね、どうぞお上がりになって。お帽子預かりますわ」
これはどうも、とパナマ帽を夫人に手渡しながら、ぼくは何気なく居間の方を見やった。人が出てくる気配はなかった。
仕方ないので桜井はまだお休みですかと聞くと、ぼくを通しかけていた夫人は振り返ってびっくりしたような顔をした。
「お約束でいらして?」
「エエ、今月の『世界』と、カントや、なんやかんやを借りることになってました。もしや奴は留守ですか」
「留守――そうなんですの――ええ、――鎌倉の辺りにしばらく行ってくるとか申しまして――」
夫人は思い出すように宙を見ながら言い、兎も角お上がりになって、お茶をお出ししますわ、と先に立った。珠緒さんのような気遣いの利く女性は今時珍しい、ぼくの妹など――いや、愚痴は言うまいが、しかし夫人と違うことは確かである。ぼくは靴を脱いで彼女のしゃんと伸びた背の後に続いた。
夫人がどうぞと居間の引き戸を開けると、どこに隠れていたものやら最前の黒猫がまたも転がり出てきた。どうやらこいつは、とんだきかん坊らしい。
「コラッ、またそんなに暴れて、いけない子だこと!」
猫は怯えるようにぼくの足の後ろに隠れ、甘えてズボンに体をこすりつけた。こうしてみると、悪戯は悪戯だがそれなりに愛嬌がないこともない。
なんとはなし猫に親しみが湧いて、ぼくはまあまあと夫人を宥め、かがんで猫の首をつまみ上げた。
「どうも貴女はこれで教育母さんの類のようですね。桜井に云々言う時より余程強気だ」
「お恥ずかしいわ、躾が行き届きませんで」
夫人の腕に返されると、猫はしばらくもがき、結局尻尾を情けなく下げてじいっと私を見ながらか弱くニャア、と鳴いた。白い長い指で黒い三角の耳の根本を撫でながら、坂木さんがお気に入りなのねえと珠緒さんはうっそり笑った。
夫人は座布団に胡座をかいたぼくの膝に猫を置いてやり、少し見ていて下さいましと言って台所に立った。茶でも入れてくれようと言うのだろう。
やっと自由を得たとでも言わんばかりにがりがりシャツを引っ掻く足の上の生暖かい生き物を、ぼくはしばらく面白くつつき回していたが、その内飽きて、何か言いたげに前足で叩かれるのをあしらいながら部屋を見回した。そうして箪笥の上に、一冊のノートを見つけた。
それは学生時代から桜井が好んで使っている型のノートで、立ち上がって手に取ってみると日記帳であるらしかった。彼はそういう方面ではまめな男で、遠出をしたからと言って日記を書かないことはないような輩だったので、忘れ物とはよくよく珍しいこともあったものだと思った。よほど慌てて出かけたか、それとも別のを持って行ったのかもしれない。
他人の日記帳を覗き見るというのは褒められた行為ではない。しかしぼくや桜井を始めとする昔馴染みの友人たちの間では、機が合えばそのような手段で互いを監視すると言うか出し抜くことに待ったをかけると言うか、情報をやり取りすることは暗黙の内に認められていた。そこに書かれている事柄が誇張を含み、あるいは実際でないとしても、ぼくらは友が相互に巨人であるを知ることによって、一種の切磋琢磨の手段としていたのである――それは学問に限らず、もっと俗人的なことをも含んでいたが。
ぼくは日記を開こうとして、その一瞬前に猫君にオイと声をかけた。
「いいか、君も覗き見の共犯だぜ。珠緒さんと桜井には秘密にしてくれたまえよ」
黒猫は言い終わるか終わらないかの内にせっかちに「早くしたまえ、ニャア」と鳴き、ぼくらは並んで日記帳を開いた。
桜井の日記は昔から、仲間連中に比べると淡泊だった。日付とその日の夕飯――蕪の味噌汁だのアジの煮付けだのと妙に美味そうなのが癪に障らないではない。珠緒さんは料理上手な人らしい――と行った場所、会った相手、読んだ本やその批評といったことが書き連ねてある。非常に淡々としている。
昔の桜井の日記には、もう少し感情的な文面が多かった。個人的だったと言うべきなのかもしれない。彼はごく簡単にあれが好きだこれが嫌いだといったようなことを書いた。いつだったか覚えていないが、覗き見た彼の日記に『坂木君は良い友だ。』と書かれていたことがあった。ぼくはさりげなくその数日後の日記に『桜井君は好ましい。全般においてである。』と書いたものだ。具体的に名前を挙げて人を褒めるのは、ぼくらの中でもなかなかしないことだった。
ぱらぱらとページを繰る内に、『鰹を食つた。初物は寿命が延びると言ふが本当だらうか。』と書いてあるのに行き会った。子どもっぽいことを書くなと思ってちょっと笑うと、横から黒猫が失敬なとばかりガブリと指を噛んだ。これはどうも気の荒い、人間くさい猫である。まるで桜井自身に横で咎められているようで、ぼくは微妙な気分になった。
「また珠緒さんに叱ってもらうぞ、猫君よ」
しかし桜井はいつの間に猫なぞ飼い始めたのだろう。ぼくと彼の間柄で水臭いものだが、ひょっとするとそれも日記に書いてあるかもしれない。
さらに日を進めると、『どうも最近食事に魚ばかり並んでいるやうに思える。』と贅沢なぼやきが現れた。
「『珠緒にたまには肉やら洋食はだうかと聞いてみたらば、お肉は最近高いンですのとの事。物価高騰の噂は聞かぬがさういふものなのだらう。』――成る程、君も相当おこぼれにあずかったと見える」
にやりと笑って撫でると、猫はまあ多少は、とでも言うように頭を振った。
その時台所の方から音がして、猫を飼う云々の話はまだ登場していなかったが、ぼくは慌てて日記を元の箪笥の上に戻した。ぼくが猫を転がして遊ぶ振りを始めたのと、盆を捧げ持った夫人が部屋に入ってきたのとはちょうど同時ぐらいだった。
夫人はぼくと黒猫を見て、仲がよろしいこととまたうっそり笑った。ぼくはなんだか気恥ずかしかった。
「やあ、どうもこれは、」
しどろもどろになっていると、夫人は礼儀正しくぼくの醜態を見なかったことにし、それでご本はどうなさいます、と首を傾げた。桜井は夫人には自室の本には手を付けないように言いつけているようで、それは夫婦にはよくある話ではあった。
ぼくが蔵書に手を突っ込んだからと言って、ましてその中の一冊や二冊をちょっと借りてみたからと言って桜井が怒ることはなかろうとは思ったが、なんとはなし早く家に帰りたくなって、ぼくはまた次にしましょうと言った。
「来月には奴も帰るでしょうから、その頃にまた来ます」
「本当に申し訳ないこと。御免して下さいね」