触手と生贄の青年
初めに気がついたのは、顔に滴る水だった。
一滴、二滴と頬を叩くその水に呼び戻されるようにして、意識を取り戻した。
ふわふわとした意識の中で、ぼんやりと目を開く。
ここは、どこだろう。
辺りはかなり濃い霧が立ちこめているようだった。
それでもこの明るさなら、もう太陽は昇っていることは分かった。
手をあちこちにまさぐるようにして辺りを探った。
森の中のようだったが、覚えのない地形だった。
人が踏み入れぬほどの奥深くなのだろうか。
あれだけ頭を打ち、身を引きずってきたにも関わらず、不思議と痛みは体のどこにもなかった。
私は何故生きているのだろうか。
そして、私は気がついた。
すぐ横に、森では見たこともない、奇妙な色の物体がある。
そちらに視線を合わせた瞬間、息を飲んだ。
村の神木と同じ程の大きさだろうか。
それは、人間の肉の色をした、見たこともない、奇っ怪な生き物だった。
何か、繭のようなものがダマのようになっていて、そこから何本も足が生えている。
足と言っても、骨など入っていないかのように、曲がりくねっている。
遠目に見ればまるで死体を重ね合わせたかのようだが、
うねうねと動くのを見るに、恐らく意思を持った生き物だ。
今まで見たことのある生物とは全く違うそれは、
普通ならば何か言いようもない嫌悪感を覚える類の、醜悪な物体だった。
これが私をここまで連れてきたのだと、私はすぐに理解した。
あの足に身を包まれ、引きずられてきたのだ。
私はそれにとり憑かれたように、這って近づいた。
手で触れたら、それはぴくりと動いた。
私が触ったことが分かったようだった。
この感触、やはり私を包んだあの感触と同じだった。
「お前が、森の神…?」
その生き物はゆるりと蠢いた。
私が意識を取り戻したこともとっくに気が付いていたようだった。
まるで異形だったそれが神だとしても、全く不思議はなかった。
けれども力ないその動きは、『違う』と言っているように私は感じた。
「違う、と?
では、お前が村を苦しめてきたのか?」
生き物は同じように蠢いた。
やはり、『ちがう』と感じられた。
私は奇妙な生物と問答しているにも関わらず、まるで魔にでも魅せられたかのように、
不思議と少しずつ安堵を感じてきている自分に気が付いていた。
「お前は、なんなのだ?」
それは蠢いた。
何か淋しそうな動きに、私には思えた。
「そうか。お前は神でもなく、村とも関係ない、と言いたいのだな。
ならばどうして、私をここに連れてきたのだ?
神でなく村とも関係なければ、村の人身御供などいるまい?」
そう言った時、それは私の体を包んだ。
そしてそっと、自分の方へ引き寄せた。
昨夜の獰猛さとは対照的な、壊れ物を扱うような動きだった。
近くまで引き寄せられた時、私は気がついた。
その生き物には、いくつもの矢が突き立っていた。
全てがかなり古いもので、矢面が外れていたり、矢じりを残すのみになっていた。
傷は全てこの生き物の命を奪うには至らなかったようで、既に癒えていたが
このとき私は唐突にそれの気持ちが分かったような気がした。
「そうか…」
この醜悪な生き物は、かつて人に追われ、そうしてここに逃れてきたのだ。
そしてきっともうずっと長い間、ここに隠れるように住んでいた。
そして孤独のまま、ついに人を求めるようになった。
そこに帰らぬ覚悟をした私が一人、森へとやってきた、というわけだ。
奇妙なことに、私は既に、それに対して人間のような感情を抱いていた。
そして同時に、あれだけ背に圧し掛かっていた、村への責任や愛着なども、
消え失せてしまっている自分に気が付いていた。
私とこれは似ている。
他から疎まれ、外界から隔たれた場所へと出ていかざるを得なかった私とこれは似ている。
自分勝手な解釈かもしれなかったが、私にはどうしてもそう思えてならなかった。
私は自分を包んでいるそれの足を、そっと手で抱きしめた。
動物の内臓のようなぬめった感触に身の毛がよだったが、もう気にならなかった。
「安心しろ。私はお前と共に居ることに決めた。
どうせもう村に私の居場所はない」
私が何かを含むように笑うと、それが軽く顔を撫でた。
私はありがとう、と言って、穏やかに笑った。
閉塞感の中で死を覚悟していた昨夜までとは全く違う心持ちだった。
人間の中で役立たずだった男が、奇妙で醜悪な生き物と二人きり、
森の奥で残りの人生を過ごす。
悪くはない。こんなにも安らかな気持ちなのだ。
私は今一度微笑んだ。
そういえばしばらく村の中ではこんなに穏やかに笑ったことなどなかったな、と思った。