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陽炎稲妻水の月

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 建物の陰で闇が歪んで、瞬く間に広がった。

 重くねっとりした、虚ろな影。ぐらぐらとそれはまるで、ヒトの心そのもののように揺れていた。
 闇。人を蝕むもの。
 心を喰って存(ながら)えるもの。


 僕の目の前にはひとりの少女がいた。
 線の細い、太陽の下になら何処にでも馴染めるような風貌。この闇には釣り合わない儚げな存在。瞳だけは前を見据えていて、そのくせ目の前のものは見ていないようにも思えた。
 華奢な右手にはすらりとした日本刀。
 その存在ひとつだけで、彼女の存在は強く有色化されていた。

 こうして後姿を見るのは何度目になるだろう。
 幽かな月光と、強い紅を浴びた彼女は美しかった。
 自らの手で生み出した紅。人を斬ると血が溢れるように、闇を斬れば禍々しい色の光が流れる。人のそれより透明で、そして穢れたもの。色素の薄い瞳は、その色の妖艶さだけを上手く写し取っていた。

「お疲れ様」
 彼女は何も言わなかった。ただ一瞥をよこして、所在無げに目を逸らした。瞳は僕を見ていない。代わりに、僕の中に蠢くであろう闇を見る。
 刀身に纏わりついた光を振り払って鞘に納める。そんなことをしなくても、いずれ消えていくだろうに。
「今日は少し時間がかかったね。怨みを狩るのは辛い?」
 微笑のうちに尋ねる。無感情の上に僅かばかりの憂愁を乗せた横顔が、小さく答えた。
「…疲れているだけよ」
 何も言われずとも分かっていた。
 彼女は僕を信用していなくて、それでいて頼っていること。


 ――僕は彼女の生命を縮めている。

 出逢ったばかりの彼女は、可哀想なくらい惨めだった。自分を惨めな存在だと思っていることが酷く惨めだった。涙を流しながら闇を切り刻む彼女そのものを、僕が刻んでしまえたらどれだけ愉快だろうと歯噛みした。
 あれからどれだけ経っただろう。
 それは刹那のようでもあり、悠久のようにも感じられた。

「久遠」
 彼女は紅に染まった右手を差し出した。それを恭しく受ける。僕は棘を吸い出すが如くその指に軽く唇をあてる。
 まとわりついた紅光と共に彼女の生気を貰う。花が血を吸うようにして、命の破片を得る。こうすることで僕は少しずつ命を永らえ、彼女は命を縮める。
作品名:陽炎稲妻水の月 作家名:篠宮あさと