掌の小説
愛
愛は、遠くで囁きかけてくる心音とその距離を保ったまま限りなく近く握手すること。そして愛は、こちらに見向きもせず逸れていってしまう刺激を絶え間なく骨髄に響かせること。さらに愛は、二人だけの世界で二人だけ滅びていってしまうその世界を複雑に彫刻するもの。だが果たして愛はそんなものなのだろうか?
ある日、役所の若い職員のような客が来訪した。さわやかに整えられた短い髪に、淡泊だが筋の通った顔立ち、機敏な動作。スーツとはこのような人のためにあるのではないかと思われるほどだった。休日だったため、私は厚いシャツの上にガウンを羽織り、客を招き入れテーブルへと案内した。外は寒かったが、客はそんな寒気を微塵も家の中へと持ち込まなかった。
「私はあなたの愛を届けに来ました。」
客は単刀直入にそう言った。私は彼を市役所職員だと思っていたので、一体何を言い出すのだろうといぶかった。しかし、そんないぶかりを打ち消すように、彼の言葉と表情は真剣なのである。
「愛というと具体的には何でしょう?」
「これです。」
彼は正座を崩さないまま、素早い手つきでビジネスバッグから三つの塊を取り出した。「あなたは他にもたくさんの愛をお持ちです。それらの愛についてのデータも我々はきちんと把握しています。ですが、経費の関係上、お届けできる愛はあなたにとって最も重大であった3つのものに限定させていただきました。」
「はあ、なるほど。」
すると、彼は包み紙をはがし始めた。
「これがno.1。あなたが小中学校で両想いだった宍戸美和さんに対する愛です。次にno.2。あなたが大学で辛い片思いをした後藤由美さんに対する愛です。最後にno.3。あなたがつい最近別れた元恋人の楠美香さんに対する愛です。」
そこに現れたのは、形容しづらいがきわめて美しい塊たちだった。彫刻作品のような美しさもあったが、生命のような有機性もあり、実際かすかに脈動しているのだった。
「ちょっと待ってください。これはプライバシーの侵害だ。あなた方行政にはこんなことをする権利はない。いい加減にしてくれ!」
私は我を忘れて大声を上げた。すると彼はにっこり笑って言った。
「我々は行政組織ではありません。あなたの心が生み出した機関なのですよ。あなたが切に望んでいたことをあなたの心に従って実現しただけなのです。」
私は言葉を失った。
「では私はここで失礼します。私の任務はここまでなので。」
客はそう言うと、呆然とした私を顧みることもなく去っていった。私はまずno.1の美和さんへの愛を眺めた。教室でよく目が合った。私たちの恋愛は皆が知っていることだった。だが私たちは付き合うには幼すぎた。卒業アルバムで彼女の笑顔を何度見返したことだろう。塊は、安定した土台の上に細かな突起がいくつも華やかに突き出ていて、二人で共有した愛の確かさとその儚さを示しているかのようだった。次にno.2の由美さん。彼女は私に恋人の存在を隠していた。だが私はそれを見抜いていたし、それを知ったうえでの付き合いだった。互いに葛藤があった。私は若かったし自分が愛される自信もなく相手を奪う勇気もなかった。塊は、細かな空洞がたくさんあり、前の方に向かって傾いていた。当時の私の空虚さを示しているかのようだった。no.3美香。初めは意気投合した。音楽の趣味が合っていたので、一緒にライブに行ったりしているうちに親しくなり、結婚まで考えたが、次第に価値観の相違が明らかになり、けんか別れしてしまった。もはや一切連絡が取れない。塊は、静かなようで荒々しく、ディテールに至るまで変化に富んでいた。
私は一通り見終わると、だからなんなのだ、と思った。私が望んでいた? 私の心が生み出した機関? でたらめもいい加減にしてほしい。あとから高額の請求が来るのか。新手の押し付け販売か。それにしてはなぜ私のプライベートな情報を知っているのだろう。
私はもう一度、愛の塊たちを慈しむように眺め返した。途端に涙があふれた。みんな、許してほしい。お前たちも私を愛してくれていたのに。私はそれにうまく応えることができなかったね。そうか、これは私の人生が生み出した私と相手との共同作品なのだ。私にとって何よりも大事な愛の記録。それを目に見えるように保存できるのだね。
私は家族に恵まれなかった。幼いころに両親が死に、兄弟もなかった。ずっと孤独に愛に飢えて過ごしてきた。そんな私だからこそ、家族愛に代わるものが欲しかったのだ。私は幼い頃から愛を喪失し、自らを愛することができず、人を愛することも上手にできなかった。愛においてことごとく失敗したと言っていい。そんな私に、そんな私がきちんと人を愛してきたのだということを知らせに、あの男はやって来たのだ。確かに私の心が一番望んでいたことなのかもしれない。
私は三つの塊を自分の部屋に持っていこうとして、一気に三つの塊を手に取った。すると、途端に塊は消えてしまった。初めから何も存在しなかったかのように包み紙だけが残された。しまった、触れてはいけなかったのだ! 何てことだ取り返しがつかない! そうだ、大切にそのままにしておかなければならないものだったのだ。
私はその晩、泣き通した。感謝の気持ち、済まない気持ち、なによりも自分が人をきちんと愛したという事実が目の前に示されたことに感動していた。今度こそちゃんと相手の愛にうまく応える。そしてまたあの男が塊を差し出すだろう。その塊は即座に消してしまうのだ。そんな記念がなくとも永続する愛を築き上げるのである。