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掌の小説

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書簡



 なぜ貴方に手紙を書こうと思ったのか僕はよく分かりません。貴方との憎しみ合いは決して美しいものではなかったはずです。それでも、既に輪郭が溶けて毒も抜かれ何やら宙に浮いているような憎しみに、最後のとどめを刺したかったのかもしれません。あるいは、僕にとって憎しみはそれ自体独立していなかった。憎しみに関係する人々の肖像、憎しみが起こった青春という時代、憎しみのたどった物語、憎しみに関する僕の苦悩と成長、そういう憎しみにまつわるものが、僕の追憶を受けて、そのときの僕自身とともに、甘くくすぐったく胸を疼かせるものとして、僕を魅惑するのかもしれません。
 僕は当時一人の女性を愛していた。名前は貴方もご存じでしょう。寛子さんです。だが貴方も寛子さんを愛していた。僕と寛子さんは愛し合っていた。それも貴方はご存じでしょう。僕と寛子さんの出会いは単純でした。同じドイツ語のゼミをとったのですが、初めの回に教授が来なかった。本当は休講だったのです。だが僕と寛子さんだけそれに気づかずに来てしまった。それで僕らは自己紹介からはじめて、ぽつぽつとさりげない会話を始めた。彼女は映画のサークルに入っていると言っていた。僕も映画について青臭く語った。あの日の出会いの情景こそ、まさに映画のワンシーンのようでした。僕の中では永遠に貴重で初々しく、僕の青春の始まりを告げ、また上手に編集された、幻想のような記憶です。この情景だけは貴方も壊すことはできなかった。
 僕たちは、そのゼミのあとの時間、連れだって食堂に行き、昼食を食べながら、また食べ終えてからいろんな話をするようになりました。それが僕の毎週の楽しみ、胸を甘く刺す喜びになりました。僕は全人格を持って寛子さんに向かい合い、あらゆる優しさと気遣いを注ぎ、自分の理論的知性を総動員して、寛子さんを退屈させないように、様々な機知を用いて、ともに親しく笑い合いながら、その時間を過ごしました。僕らは特に愛の告白をしたわけでもないけれど、互いに心の本質にある純粋なものを呼びかけ合い、次第に惹かれ合い、互いに寄り添うようになりました。僕たちは、ゼミとも関係なく頻繁に会うようになりました。
 そこで貴方が登場したわけですね。貴方は彼女と同じサークルに入っていて、彼女の美しさに惹かれた。貴方にとって彼女は性的な対象でしかなかったのです。そこが僕との決定的な違いでした。僕にとって寛子さんは、何よりも精神のこまやかさ、物事の中心を見据える鋭利な知性、誰でも人を愛する強い包容力、そういった内面的な諸価値において魅力的でした。外面的な美貌は愛を促進するための二次的なものに過ぎなかった。だが貴方は彼女を所有したかった。貴方にとって彼女は一つの装飾物、貴方がよく意味もなく身につけていた流行の衣服やアクセサリーと同等のものに過ぎなかった。
 貴方は僕たちについて根も葉もないうわさを立て始めた。ここに書くのもためらわれるほど下劣な噂です。その噂によって僕は傷付いたし、誰よりも寛子さんが傷付いた。噂というものは、噂が噂を呼び、それがさらに噂を呼ぶという具合に、しかもその連鎖の過程において微妙に変形され誇張されていき、僕たちは見も知らない人に指差されさげすまれるようになりました。
 僕の友人の中には僕に対してよそよそしい態度をとる人も出てきました。また、寛子さんもサークルの中に居場所がなくなり途方に暮れました。そこであなたは寛子さんに詰め寄った。そして拒絶された。そのことで貴方は寛子さんを憎むようになった。貴方は人の愛し方を知らなかったのです。自分の力でなんでも思い通りになると思っていたのでしょう。ところが人の心はそんなに単純なものではない。貴方の本性は、自然の本性といつも食い違っていた。貴方は欲望にとらわれるあまり、自然な人と人との関係というものを抽象化し自分に都合のよいように解釈し、当然その解釈は人間の心の自然と矛盾するものですから、貴方の解釈通りに人の心は動かなかったのです。
 僕は貴方と何度か話をしようとしましたよね。そのたびごとに貴方はそれを拒否した。貴方は怖かったのではないですか。僕が理路整然と貴方の非を証明するのが。貴方の、人間の自然なあり方に反するような、欲望の去就についてとがめられるのが。仕方ないので僕は貴方を平手で打った。僕にはその頃貴方に対してはもはや憎しみしか抱いていなかった。貴方は一瞬どうしてよいか分からず表情が空白になった。僕はそこに自分の勝利を見てとった。だが少ししてあなたは笑いながら去って行った。僕は悲しくその笑い声の遠ざかるのを聴いていた。私はそのときから貴方に対する憎しみが変質した。貴方に対する憎しみは悲しみと混色してどちらだかわからなくなった。
 それから貴方はもう私たちについて何事も言わなくなった。だが噂はなかなかおさまらなかった。僕と寛子さんは、周りの目に負けないように、逆にいつも寄り添って歩くようになった。僕たちは悲劇を共有することで、一層お互いの深部を共有しあった。二人とも同じ傷を抱いていたが、傷を共有することでその痛さは和らげられた。寛子さんの言った言葉を今も覚えています。「私たちをつなげているものは愛情より悲しみなんじゃないかな。」寛子さんはまぶしく笑いながら言いました。
 僕は今でも貴方を許しません。僕と寛子さんの愛をけがした貴方を。僕たちの愛は原形をとどめないほどゆがめられ、ですがその一方で、愛の本質、互いに呼び合い結びつきあうという本質は、一層強靭に保たれました。僕は本当にこの手紙で何をしたいのか分からないのです。貴方を断罪したいのかもしれない。貴方に復讐したいのかもしれない。ただ自分の甘く苦しかった傷を癒したいのかもしれない。過去をなぞるとき、過去の手触りはとても心地よい。僕は過去への郷愁に胸がうずきます。
 寛子さんとは今一緒に暮らしています。この事実が貴方に対して衝撃を与えることができるだろうか。貴方は僕たちが共に暮らしていても衝撃を受けないほど、寛子さんを軽くしか愛していなかったのではないか。ひょっとしたらこんな手紙もくだらないものとしてすぐに捨ててしまうのではないか。だがそうだとしたら、その事実はますます僕たちの勝利を確証します。人間の愛というものを本当に実現させたものたちにとっての、人間の愛というものの本性をついに理解できなかった貴方に対する、勝利に他ならないからです。
 とにかく、ここで筆を擱きます。僕はそれでも貴方の人間らしさに期待しているのです。この手紙を読んで、胸を痛ませ、涙を流す、そういう貴方の姿を期待しているのです。いくらあなたを憎んでいても、貴方の人間性は否定したくないのです。どうか、人間の自然というものを見失わないように。

作品名:掌の小説 作家名:Beamte