五月鎌倉散策日和
五月(ごがつ)鎌倉散策日和
世間でゴールデンウィークと呼ばれるようになる二日前、五月(さつき)と日和(ひより)は鎌倉駅に降り立った。日和は本来なら彼氏とデートの予定だったが、休み前に別れてしまったのだ。平日の10時過ぎ、ホームをのんびり歩いても人にぶつかることもない。五月は前をすたすた歩く日和の左手をぎゅっと捕まえた。ふわりと五月のスカートが膨らむ。
「ひーちゃん、そんな急がなくても大丈夫だって。」
悪戯っぽく唇をむにむに尖らせている五月を見て日和は苦笑するが、何だか楽しそうなのはお互いさまだった。別に並んで歩いても人も少ないし迷惑にならないか、そう自分の中で理由を作ってから日和は五月のペースに合わせて歩き始める。五月は、ありがとうと笑って手を握り直した。急に恥ずかしくなって繋いだ手をぶんぶん振りまわしても気の抜けた悲鳴が上がるばかり。降参という意味を込めてため息をつくと、五月は満足気に瞳を煌めかせて走りだした。改札を電子カードで駆け抜ける。日和が慌てても手は離さず、ふわんと髪を揺らしながら五月は階段を下っていった。
「ほら、ひーちゃん!鎌倉だよ!幕府だよ!」
「知ってるってば、それくらい。私が行きたいっていったんだから。」
駅舎から出ると車の少ない大通りの上に青空が広がっていた。さらさらと吹く風が、日和の髪をまたさらさらと吹きぬける。もっとちゃんと空を見たいと思い、赤いフレームの眼鏡をシャツの裾で拭いてかけ直すと、視界がクリアになったが肝心の相方が見当たらない。
「ちょっと五月?」
さっきまで、あんなに振り回しても手を放してくれなかったくせに。地図を持った五月はさっさと横断歩道の向こう側へ歩いていって、小さくなっていた。
段葛を並んで歩く。木漏れ日が降り注いで日和の黒髪を艶やかに照らし、参道の両脇に咲く紅いツツジが少女達を一層華やかにする。そのツツジを摘み取っては花の付け根を口に含み蜜をすする五月の手を引っ張るのに、日和は手一杯だった。どんなに軌道修正しても、五月は春の蜜蜂みたいに花から花へ、ふらふらと。だけど鈴を転がすように笑う五月につられて、気づくと二人とも笑っている。そう、だから日和はいつも失恋旅行に五月を誘う。
「ツツジはね、おいしいんだよ。」
そう言って一輪、あーんと差し出された日和は死ぬほど困った顔で遠くを見つめていた。しばらくツツジと睨み合ってから仕方ないと覚悟を決めて薄く唇を開くと、五月がそっと日和の薄い唇に柔らかい花を乗せる。戸惑いがちにゆっくり食む。耳に掛けられた黒髪がはらりと落ちた。店先に並ばない味がする。
「おいしい…」
「でしょ!何か、ひーちゃんに花が咲いてるみたい。似合うね。」
言われてから口にくわえたままだった花を思い出して日和は赤面する。真正面に立ってまじまじとそんな日和を見つめ、五月は唇から花を奪い取って石垣に落とした。
「この紫の鮮やかさ、つつじもゆ… って言うの、ひーちゃん。」
ゆるりと花弁と花が別れ、口付けた花は形を残したまま石の上へと転がる。灰色の石の上、それは炎とは違う色で確かに燃えている。紅か、紫か。発火すれば同じ鮮やかさ。落ちたツツジを見つめる日和の横顔はまだほんのりと赤く、呟いた五月に髪を撫でられても気がつかなかった。
五百メートルの段葛を通り過ぎ、いよいよ鶴岡八幡宮が見えてくる。ここまでくると五月のテンションは最高潮だ。いつも浮足立っているのに、さらに浮足立って鼻歌まで歌っている。誰にも真似できない音程で。
「まいでーんまいでーん」
「舞殿、そんなに好き?」
「大好き。」
「そう言うと思った。」
ふふっと微笑んで、日和の歩く足が速くなる。そんな日和の気づかいが嬉しくなって、また五月は走りだした。早く見たいのだ、朱塗りの舞殿を。そんなに運動は得意じゃないけれど、腕を大きく振って全速力で坂道を突き進む。砂利をスニーカで踏みしめる感覚に少し戸惑いながら、軽く背中が汗ばむまで走る。大銀杏の前に舞殿を見つけたとき、五月は叫んだ。
「ひーちゃん早くー!」
それは無理な話だ。姿は見えない五月の声が大銀杏の方から聞こえる。まったく、シフォンスカートが泣くぞ。すごいスピードで駆けて行った相方は、そういうところにまるで頓着しない。ジーンズにヒールを履いている日和はもう諦めたように、眼鏡のフレームを押し上げてからゆっくりと砂利道を歩いた。舞殿がはっきり見えてくるころ、ツツジの影に雀が三羽ほど集まって、砂利で体を洗っているのを見つけた。さっきはあんなに鮮やかに見えたツツジより、ぜんまいの玩具のように動くまるまるした雀に目が行くのはどうしてだろう。カステラみたいな色してる… なんてふと頭を過り、自分も五月に考え方が似てきたのかと不安になった日和は、黒い髪をなびかせて相方の方へ走った。とりあえず手水舎でちゃんと手と口を清めてから。
平日の八幡宮は静かだった。だけど様々なものが動いていた。風も流れるし、木も揺れる。まばらな人も舞殿を一瞥し、大石段を上り本殿へ向かう。静止しているのは、凛と立つ五月と赤い舞殿だけ。ちんまりとした五月は、それでも建物を見据えていた。全景を上から下まで首を動かして眺めては目を閉じ、屋根や装飾品の細部を凝視してはまた眼を閉じる。焼き付けるようにしばらく繰り返してから、三歩建物との距離を縮めた。
「しずやしずしずのおだまぎ繰り返し、」
五月は朱塗りの柱にそっと手を伸ばし、恍惚の表情で目を瞑る。そして柱を指でそろりと撫でた。瞼の裏にちらちらと日光を感じる、そして指が朱と交わっていく。吐息が声になって、きゅんと胸が苦しい。紡いだ言葉は今ではなく、時を遡って文治二年の遥かなるあの人へ。
「むかしをいまになすよしもがな。」
今の世の中を昔に変えることが出来れば…、その歌はただ覚えているわけではなくて五月の本心から出た言葉であり、これ以上の言葉はなかった。歴史を編む糸がずっと繰り返されたら、今も昔ももしかしたら繋がるかもしれない。この場所と触れるものと自然が作る音だけなら、今がいつなんて誰が分かるんだろう。時間は違うかもしれない、でも空間は確かにここなのだ。五月を満たす息は文治二年の薫りがした。
「えー、五月…、また悪い癖の真っ最中?」
「恋人との逢瀬を楽しんでるんですー。」
「歴史上の、でしょ?」
ぶーぶー文句を言いながら、今までの神聖な空気をぶっ壊して五月は平成の世に戻ってきた。砂利道に雀を見つけて、指をさし鈴カステラみたいと笑い始める。苦笑する日和も慣れたもので、どのタイミングで現世に呼び戻せばいいか心得ているようだ。日和がそっと右手を差し出すと、五月は飛び跳ねてしがみついた。やわらかく抱きついて背中に腕を回す。
「ぜーったい失恋しないし裏切らないよ。ひーちゃんもどう?」
「はいはい。でも私はまた失恋したら五月と失恋旅行したいからね。」
「えー現実はもういいよー、疲れるだけだし。」
世間でゴールデンウィークと呼ばれるようになる二日前、五月(さつき)と日和(ひより)は鎌倉駅に降り立った。日和は本来なら彼氏とデートの予定だったが、休み前に別れてしまったのだ。平日の10時過ぎ、ホームをのんびり歩いても人にぶつかることもない。五月は前をすたすた歩く日和の左手をぎゅっと捕まえた。ふわりと五月のスカートが膨らむ。
「ひーちゃん、そんな急がなくても大丈夫だって。」
悪戯っぽく唇をむにむに尖らせている五月を見て日和は苦笑するが、何だか楽しそうなのはお互いさまだった。別に並んで歩いても人も少ないし迷惑にならないか、そう自分の中で理由を作ってから日和は五月のペースに合わせて歩き始める。五月は、ありがとうと笑って手を握り直した。急に恥ずかしくなって繋いだ手をぶんぶん振りまわしても気の抜けた悲鳴が上がるばかり。降参という意味を込めてため息をつくと、五月は満足気に瞳を煌めかせて走りだした。改札を電子カードで駆け抜ける。日和が慌てても手は離さず、ふわんと髪を揺らしながら五月は階段を下っていった。
「ほら、ひーちゃん!鎌倉だよ!幕府だよ!」
「知ってるってば、それくらい。私が行きたいっていったんだから。」
駅舎から出ると車の少ない大通りの上に青空が広がっていた。さらさらと吹く風が、日和の髪をまたさらさらと吹きぬける。もっとちゃんと空を見たいと思い、赤いフレームの眼鏡をシャツの裾で拭いてかけ直すと、視界がクリアになったが肝心の相方が見当たらない。
「ちょっと五月?」
さっきまで、あんなに振り回しても手を放してくれなかったくせに。地図を持った五月はさっさと横断歩道の向こう側へ歩いていって、小さくなっていた。
段葛を並んで歩く。木漏れ日が降り注いで日和の黒髪を艶やかに照らし、参道の両脇に咲く紅いツツジが少女達を一層華やかにする。そのツツジを摘み取っては花の付け根を口に含み蜜をすする五月の手を引っ張るのに、日和は手一杯だった。どんなに軌道修正しても、五月は春の蜜蜂みたいに花から花へ、ふらふらと。だけど鈴を転がすように笑う五月につられて、気づくと二人とも笑っている。そう、だから日和はいつも失恋旅行に五月を誘う。
「ツツジはね、おいしいんだよ。」
そう言って一輪、あーんと差し出された日和は死ぬほど困った顔で遠くを見つめていた。しばらくツツジと睨み合ってから仕方ないと覚悟を決めて薄く唇を開くと、五月がそっと日和の薄い唇に柔らかい花を乗せる。戸惑いがちにゆっくり食む。耳に掛けられた黒髪がはらりと落ちた。店先に並ばない味がする。
「おいしい…」
「でしょ!何か、ひーちゃんに花が咲いてるみたい。似合うね。」
言われてから口にくわえたままだった花を思い出して日和は赤面する。真正面に立ってまじまじとそんな日和を見つめ、五月は唇から花を奪い取って石垣に落とした。
「この紫の鮮やかさ、つつじもゆ… って言うの、ひーちゃん。」
ゆるりと花弁と花が別れ、口付けた花は形を残したまま石の上へと転がる。灰色の石の上、それは炎とは違う色で確かに燃えている。紅か、紫か。発火すれば同じ鮮やかさ。落ちたツツジを見つめる日和の横顔はまだほんのりと赤く、呟いた五月に髪を撫でられても気がつかなかった。
五百メートルの段葛を通り過ぎ、いよいよ鶴岡八幡宮が見えてくる。ここまでくると五月のテンションは最高潮だ。いつも浮足立っているのに、さらに浮足立って鼻歌まで歌っている。誰にも真似できない音程で。
「まいでーんまいでーん」
「舞殿、そんなに好き?」
「大好き。」
「そう言うと思った。」
ふふっと微笑んで、日和の歩く足が速くなる。そんな日和の気づかいが嬉しくなって、また五月は走りだした。早く見たいのだ、朱塗りの舞殿を。そんなに運動は得意じゃないけれど、腕を大きく振って全速力で坂道を突き進む。砂利をスニーカで踏みしめる感覚に少し戸惑いながら、軽く背中が汗ばむまで走る。大銀杏の前に舞殿を見つけたとき、五月は叫んだ。
「ひーちゃん早くー!」
それは無理な話だ。姿は見えない五月の声が大銀杏の方から聞こえる。まったく、シフォンスカートが泣くぞ。すごいスピードで駆けて行った相方は、そういうところにまるで頓着しない。ジーンズにヒールを履いている日和はもう諦めたように、眼鏡のフレームを押し上げてからゆっくりと砂利道を歩いた。舞殿がはっきり見えてくるころ、ツツジの影に雀が三羽ほど集まって、砂利で体を洗っているのを見つけた。さっきはあんなに鮮やかに見えたツツジより、ぜんまいの玩具のように動くまるまるした雀に目が行くのはどうしてだろう。カステラみたいな色してる… なんてふと頭を過り、自分も五月に考え方が似てきたのかと不安になった日和は、黒い髪をなびかせて相方の方へ走った。とりあえず手水舎でちゃんと手と口を清めてから。
平日の八幡宮は静かだった。だけど様々なものが動いていた。風も流れるし、木も揺れる。まばらな人も舞殿を一瞥し、大石段を上り本殿へ向かう。静止しているのは、凛と立つ五月と赤い舞殿だけ。ちんまりとした五月は、それでも建物を見据えていた。全景を上から下まで首を動かして眺めては目を閉じ、屋根や装飾品の細部を凝視してはまた眼を閉じる。焼き付けるようにしばらく繰り返してから、三歩建物との距離を縮めた。
「しずやしずしずのおだまぎ繰り返し、」
五月は朱塗りの柱にそっと手を伸ばし、恍惚の表情で目を瞑る。そして柱を指でそろりと撫でた。瞼の裏にちらちらと日光を感じる、そして指が朱と交わっていく。吐息が声になって、きゅんと胸が苦しい。紡いだ言葉は今ではなく、時を遡って文治二年の遥かなるあの人へ。
「むかしをいまになすよしもがな。」
今の世の中を昔に変えることが出来れば…、その歌はただ覚えているわけではなくて五月の本心から出た言葉であり、これ以上の言葉はなかった。歴史を編む糸がずっと繰り返されたら、今も昔ももしかしたら繋がるかもしれない。この場所と触れるものと自然が作る音だけなら、今がいつなんて誰が分かるんだろう。時間は違うかもしれない、でも空間は確かにここなのだ。五月を満たす息は文治二年の薫りがした。
「えー、五月…、また悪い癖の真っ最中?」
「恋人との逢瀬を楽しんでるんですー。」
「歴史上の、でしょ?」
ぶーぶー文句を言いながら、今までの神聖な空気をぶっ壊して五月は平成の世に戻ってきた。砂利道に雀を見つけて、指をさし鈴カステラみたいと笑い始める。苦笑する日和も慣れたもので、どのタイミングで現世に呼び戻せばいいか心得ているようだ。日和がそっと右手を差し出すと、五月は飛び跳ねてしがみついた。やわらかく抱きついて背中に腕を回す。
「ぜーったい失恋しないし裏切らないよ。ひーちゃんもどう?」
「はいはい。でも私はまた失恋したら五月と失恋旅行したいからね。」
「えー現実はもういいよー、疲れるだけだし。」