サーガイアの風見鳥
4.サーガイア
その日は、とびきりに風向きがよかった。山村の言うとおり、俺が閲覧登録しているミニブログのユーザーたちの間で、なにやら面倒な討論が巻き起こっていた。ミニブログを活用している美術評論家や、ストリートアーチスト、それとはまったく関係のない外野連中が入り乱れて、どうでもいいような議論を延々と繰り広げていたのだ。それも、次第に論理性を失って、罵倒合戦の様相を呈してくる。中心になっているのは評論家で、彼は口べたで知られるが、文字上のやりとりになると途端に筆鋒鋭く、毒舌になるのだった。そして彼の論理優先の言説が、現場で地道に絵を描いているアーチストたちの逆鱗に触れた……という流れだったらしい。俺は携帯電話でそのやりとりを眺めながら、自分の意見を書き込んだり、説得したりを繰り返した。話題は、日本のストリートアートの問題から、本場アメリカの事情や、パレスチナの防壁に描かれたグラフティの話題にまで飛び火する。俺は、いつもグラフティの画像を貼ってくれるアーチストに見方した。俺の筆鋒も、この日は割と冴えている気がした。俺の書き込んだ文章は何度も引用され、賛否さまざまなコメントが付き、議論は加速したがやがては評論家が折れるかたちで収束した。
「@procoさん、ありがとうございました(^^)」
俺のIDに宛てた、お礼のコメントが画面に並んでいく。俺はこの上なく満足していた。長い長い議論の旅を終え、問題を解決したこの達成感。俺はみんなにコメントを返して、携帯電話を閉じた。
顔を上げると、高田馬場の小さな携帯電話販売店の自動ドアが目の前にあった。
小雨は降り続いている。店はそれなりに繁盛していて、女子高生や家族連れが、店内に並べられた新型の携帯電話に見入っていた。奥のカウンターでは、販売員たちが新規契約にやってきた客たちの相手をしている。顔は見えない。午後だった。
妹がここでバイトをしている? 本当だろうか。携帯電話の販売員が、高校生のバイトで勤まるだろうか? それに、実家に住んでいる妹がわざわざここまでバイトをしにくるとも思えない。そうは思いながらも、俺の心臓はいやに鼓動を速めていた。心地よい速さではない。俺の達成感は、携帯電話を閉じた途端に消えてしまっていた。俺は高田馬場にいて、アメリカやパレスチナにはいないのだった。
果たして、妹たちはそこにいた。妹たちが、制服姿でカウンターに並び、仕事をしていた。ただ、少し厚めの化粧をし、茶色く染めた髪を後ろでひとつに縛っているので、印象はだいぶ違う。本人かどうかすら怪しかった。彼女たちは業務用の笑顔を顔に張り付け、接客に勤しんでいる。忙しいのだろうか。俺は客として、妹たちのうちから一人を選んでその前に座った。
「いらっしゃいませ。本日は新規のご契約ですか?」
"なんでこんなところで仕事してるんだ。正社員じゃないのか? それに、電話もくれないで……。心配したんだぞ。メールを返さなかったのは、悪かったけど……。"
「新規ではなく、機種の変更でしょうか?」
"いつのまにそんな髪にしたんだよ。まあ俺だって染めてるけどさ、お前には、黒い髪が似合ってたと思うよ。"
「お客様のプランですと、まだこちらの機種のお払い分が残っておりますので、機種変更ということになりますと、違約金が発生してしまいますが……」
"ひょっとして怒ってるのか? 俺は別に、なにも知らないないよ。だってお前、あんなところに、ホクロなんてないだろ。な? お前には関係ないんだ。俺はお前に嘘ついたことなんてないだろ。そうだろ。"
「かしこまりました。それでは、どちらの機種にいたしますか? 今期はこちらのスマートフォンがおすすめとなっておりますが」
"会うのだって久しぶりだろ? まさか当てつけで、高田馬場まで来たわけじゃないよな? お前は実家にいてさ、俺とは関係ないもんな?"
「そうですね……こちらのシリーズはどの機種も海外で使うことができます。ですがほかの機能を考えたら、こちらがおすすめになりますね」
"風向きさえよくなれば、俺はなんだってうまく出来るんだ。ゲームとオナニーばっかしてるわけじゃない、バカにするなよ! 俺をそんな目で見るのはやめろ!"
「どういたしますか?」
「あ、いや、やっぱりいいです、ご、ごめんなさい」
その日はなにもせず家に帰った。あのゲームはもうやらなかった。メールのチェックもしなかった。風見鳥を取り外して叩き割ると、赤い破片が飛び散って、くっつくほど風見鳥の目に自分の目を近づけていた俺の頬を切りやがった。血が出たかと鏡を覗き込むと、満足げなにやけ面が映る。微熱が出た。例の動画でオナニーをしてから、寝た。
気がついたら、目を開いていた。いつ頃寝たのかは覚えていない。身体がやたらとだるかった。暗い。見上げているのは、自室の天井だ。夜だろうか。二日酔いのように、頭がガンガンと痛む。目玉を左右に動かすと、飛蚊症の蚊がやたらと大きく成長しているのがわかった。視界がぼやけているようだ。目頭がしくしくと痛い。
高田馬場のゲームセンターを出てから、どうやって帰りついたものかまったく記憶がなかった。下半身が変に痛いので寝間着のズボンを下ろして見てみると、下着と股が精液でべっとりと濡れていた。夢精だろうか? 気持ち悪い栗の花の臭いがする。だが、着替える体力はなさそうだった。身体が熱い。
なんとか起き上がり、コンピュータを起動してメーラーソフトを確認する。最後の企業からメールが来ていた。彼らは、俺の就職活動の成功を祈ってくれていた。俺はぞっとして、コンピュータから離れ、万年床に身を投げた。山村を恨む気にもなれない。ふと視線を動かすと、暗闇の中に緑色の光が明滅しているのを見つけた。腕を伸ばして携帯電話を取る。
「いまそっち行くから」
と、簡素な文章が表示されていた。妹からのメールだ。
俺はすっかり取り乱してしまった。目が冴え冴えとしてくる。今は何時だ、夜の二時頃か。日付までは分からない、コンピュータにかがりついて確認する。日付は……
どんどん、と、ドアが叩かれた。心臓が跳ねた。叩かれているのは、俺の部屋のドアだ。安い作りのドアが、どんどん、どんどん、と叩かれている。全身から冷たい汗が吹き出した。どうする、出るか。いや、だめだ。まだだめだ。