小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ガーデン

INDEX|2ページ/3ページ|

次のページ前のページ
 

 また、木漏れ日が差した。暗い台地の道に光が差し込むと、葉の緑色、微妙なグラデーションを誇る茶色の木々――梓の木だろうか――や、群生するニガヨモギや、藪に混じった名も知らぬ紫の可愛らしい花の色などがほんの少しの間ではあるが、周囲の暗がりと溶け合うように明示される。藪に潜んだ花々は、自生しているものか、かつて誰かが植えていったものなのか、その姿が彼女の嗅覚を刺激する。甘ったるいアップルパイの香り。気持ち悪いほどに暖房が利いた、照明も眠気を誘うような暖色で揃えられたきらびやかな一室。赤黒い絨毯。アップルパイの香りには、胸がむかむかするような、ひどい化粧のにおいも混じってくる。それと人いきれ。装飾机の花瓶に飾られた、紫の愛らしい花。その奥、窓の向こうは鬱蒼とした森だ。ここは壁の内側だったか、向こう側だったか? いずれにせよ、スクラップ帳に筆を入れるときの彼女は、いつだってそんな感覚の交差を身のうちに覚えていた。不思議な昂揚と不安、身体の芯を熱くするような快感と、おそらく快感の過剰によるひりつくような痛み。喉の奥が乾燥して熱い。誰かのささめき――話の話者か、森の木々か、空想の中の洋館の客人たちか――を耳の奥に感じつつ、もう一度彼女は水を飲もうとする。甕から掬って水筒に入れておいた、あの水だ。しかし”ここはそれにはふさわしくない”。彼女は筆を置く。話者の視線は、こちらを異属と見なしている。彼女はまた息をつく。木漏れ日はもう差し込んでいない。彼女はベッドから身を起こす。幼い柔肌に感じるなめらかなシーツの感触は得も言われぬ。もう一度頭を上げて前を見る、闇は僅かばかり裂け、光で目がくらんだ。そして、あの白百合のレリーフが目に飛び込んでくる。

 白艶館と呼ばれたかつての迎賓館は、黒い台地のちょうど真ん中に佇んでいた。名の示す通り、過剰なほど白く塗装された洋館が主で、チューダー様式を模した、派手すぎない佇まいをしている。しかし、洋風の塀に囲まれた領域の内には、ほかにも和風の平屋やビザンツ様の小礼拝堂などが、時代と場所の秩序を無視して密集しており、長らく打ち捨てられ風雨にさらされたその容貌と、周囲を完全に取り囲む黒い森の威容によって、勇気のあるものでも心臓が冷たく波打つくらいの空気の冷たさを保っていた。悪名高い放蕩貴族の悪徳の館。エヴィデントな魔法の時代が生んだ膿のようなものの残滓。その存在を知っていようがいまいが、道とはいえない山道を分け入って手探りのような状態で小枝に頬を傷つけられながら進んだ先にまるで待ちかまえるようにこれらの建築物が朽ち果てて建っているさまを見れば、自分がまだ日常のただなかにいるのだという自信は容易にうち砕かれるだろう。地図を持たない人間があの道を辿ってここに至るのは、この廃墟を目指してのことに相違ない。夜の闇を愛して、オカルチストたちはたびたびこの場所を目指す。夜は、黒い塊がもっともその密度を増す時間だ。かつてこの館ではこの国の人間がなし得る限りのすべての淫蕩と惨劇が繰り広げられたのだという、まことしやかな噂が、夜を愛する人間たちを引き寄せる。

 "小白川センセイ"は、白百合のレリーフが出迎える煉瓦造りの正門をくぐる。俄に、背中にかゆみにも似た痛みが走る。しばらくその痛みを噛み締めるように立ち止まって身体を抱いてから、荒れるに任せられた中庭を横切っていく。錆び付いた幼いキューピッドのブロンズ像が、背の高い雑草の中にぽつんぽつんと並んでいて、まるで海に沈もうとしているかのようだった。腐った雨水が溜まった噴水に、小鳥たちが集まっていた。その奥に見えるのは、古ぼけたブロンズのブランコだ。薔薇や百合や竜胆を模したすかしが、雑草の影に埋もれている。彼女は軋むブランコを二三回ほど揺らしてみてから、元きた方には戻らず、重い鉄扉が行く手をふさぐ正面玄関は避けて、ちょっと眺めただけではわからないような奥まったところにある裏口――木製の扉は朽ち、誰でも入れるようになっている――を使って中に入った。薄暗く、絨毯は赤黒い。

 裏口から厨房――壊れた冷蔵庫やまだ新品のようなワイングラスの並んだ棚を開けたり閉めたりして、彼女はずいぶんと時間を無駄にしてしまった――を抜け大広間へと繋がるところの廊下には、粗大ゴミと見分けのつかないような家具が乱雑に転がっており、そのために道幅は狭くなっていた。砕けたワイングラス、ページがバラバラになって壊れてしまった装飾本……扉の破壊されている部屋を覗いてみると、大抵の場合、くすんだ白のベッドが、まるで誰かが立ち去ったすぐあとのように乱れ、シーツの皺が艶めかしい曲線の交差をなし、かつては高級であったろうその素材のなめらかさの故に、なにか人の肌のような感触さえ、ただ見るだけで伝わってくるのだった。

 しばらくお気に入りの絵を探しに久々に美術館にやってきた客のような足取りで、時間を忘れて迎賓館を彷徨いていた彼女は、やがて少し身体の力を抜きつつ、とある一室の古ぼけたベッドに腰掛けた。そこは、ライトグリーンのカーテンが目立つ、赤黒い絨毯の部屋で、ほとんど割れてしまったシャンデリアが天井からつり下がってゆらゆらと揺れ、その周りを蛍のような緑色の光がふわふわと飛び回っていた。同じく割れた姿見に、ロココ調の優美なナイトテーブル、それから天蓋付きのダブルベッドは、この部屋の主で、いまだに威風堂々としてそこに座っている。まるで誰も訪れないということはないらしく、ナイトテーブルの周囲にはカップ麺やら、煙草がぎゅうぎゅうに詰め込まれた空き缶やら、太い古そうな電池やらが、乱雑に散乱している。部屋には一枚だけ絵が飾られており、それは林檎の木の下に佇む二人の男女と、それに寄り添うよく似た二人の少年を描いたものだった。男と女は抱き合うように連れ添っているが、歳の差がずいぶんあるように見える。古典的で写実的な時代の有名な画たち家の筆致を真似てはいるようだが、それが誰の絵であるのかは未だにわからない。

 彼女はゆっくりと、古ぼけたスクラップ帳を開いた。挟み込まれた紙は大きさがまちまちで、日焼けしたものもあれば真新しいものもあり、乱雑な筆跡は、無秩序にのたうつように統一なく刻まれている。ただ唯一の秩序は、表紙があって、そこから順にページをめくっていくと、背表紙に到達するということだけだ。友人たちに揶揄され、自らこうやってスクラップ帳を開くたびに、彼女は自分の無精さに目眩すら覚えることがあったが、このうら寂れた台地の真ん中では、古くなった紙の黴びたようなにおいが甘い林檎酒に似ているような気がして、不思議と身体が昂揚する。シロップはたっぷり、添え物のチョコレートはお好みで。それは口には甘いが、腹にはニガヨモギのように苦い。

 ここが、彼女の唯一の書斎だった。定まった書斎など持たず、本はどこでも読むのが小白川センセイの流儀だ。あらゆる本を、あらゆる場所で、あらゆる時間に読む。しかし、このスクラップ帳だけは、日の元で読むには暗すぎるし、夜の闇の中で読むには明るすぎた。資料整理の合間にオーヘンリを読み漁り、通勤の途上でカフカを熟読していても、スクラップ帳を覗くのは、この部屋以外にはありえなかった。
作品名:ガーデン 作家名:不見湍