嵐の環・台風の虹彩(酒井貴裕)
3
ムシャンガはジッポーなど大して珍しくもない、といった様子で歯を見せて笑っていた。アフリカに住む人間は犬歯が長いものだと坂上は幼少時から何気なく思っていたが、自家栽培の迷信だった。お互いの顔もよく見えない真夜中は月光がとても健気に思われた。
一九六一年にシエラレオネが独立を果たす前年に坂上はムシャンガと出会った。シエラレオネの公用語は英語であったため、彼は人と話すのに何ひとつ不自由しなかった。
「どうしてここに来たの?」
ムシャンガは黒髪を腰まで伸ばした黒人で、いつも青か純白のワンピースを着ていた。坂上は最初彼女を金持ちだと思ったが、実際街ゆく人を見る限り彼女は少なからず裕福であるようだった。
「することがなかったんだ」
日本人なんて珍しい、初めて見た、と色々な人がシエラレオネ滞在中の彼に言ったものだったが、ムシャンガはそうしたことを一切口にしなかった。
「羨ましいなあ」
彼女の歯は他の現地人と比べると信じがたいほどに美しい白で、それを見たくて坂上は彼女を笑わせようと必死になっていた。その白は彼に日本橋に積もった雪を思わせた、それをしゃがんで口に含んだ遠い夕闇を思い出させた。
砂埃が立たないから誰も歩きまわってなどいない、と考えるのは間違っている。砂利ひとつ鳴らさず高位の人間の首元を掠める存在は物語の中だけのものではないのだ、ムシャンガの父親は人違いで危うく寝首をかかれそうになったことがあった――もっとも、彼はその二年後に熱病で死んだ。なお、その妻は五人目の娘を産んだ際に出血多量で夫の前年に亡くなっている。
ムシャンガはフォーラー・ベイ・カレッジ(現シエラレオネ大学)を卒業したのちは田舎で医者として働きたいと入学以前から切望し続けていて、実際ある日彼女は坂上に「あす村に帰る」と言ってきた。坂上が自分も君についていきたいといった旨のことを言うと彼女はあっさり了承した。
「だって何もすることないんでしょ?」
村は幾本もの木が幅を利かせる高原地帯で、それは坂上が抱いていたそれまでのアフリカの印象を根底から覆すものだった。空の澄んだ土地だった。一度家五件ほどの胴体のハゲタカがやってきて村人三人を背に乗せてどこかに飛んでいったが、およそ一週間後に川上から三人とも流れ着いてきた。三人は皆ほっくりとした顔をしていて、幾分なまりの強い英語で「タノシカツタ」と微笑んだ。
みんな楽しそうだね、と滞在から一ヶ月した頃坂上はムシャンガに囁いた。本当にいい村だよ、こんなに幸せな気分になったのは久し振りさ。
村には美しい女がたくさんいたが、大抵は八十歳を超えた者たちだった。しかしどの者も五十歳以上若く見える者たちばかりで、しかも皆透き通った声で上手に唄をうたった。そのレパートリーはほとんどが古来より伝わる民謡だったが、その中でも特筆すべきは『遥かなる朝の都に根差した木の根元、比類なきわれらが祖神が疾風の意志を紡ぐ』だろう。ザ・ビートルズが『ホット・アズ・サン』のヴァース部にこの唄のコーラスをそのまま借用しているのである。静穏な場所――例えば森林の最深部など――で傷つけられた誇りを慰むように固く握り拳を作ったときのような、人知れぬ闘志が指に滲むような旋律である。坂上は生涯その旋律の虜となり口笛で幾度となくそれをなぞることとなる。
坂上が村に来て五年が過ぎた。九月に入りかけのある日、村にひとりの行商人が小型トラックほどの荷馬車でやってきた。
行商人が品物を広げだすと皆こぞってそれに群がり、物々交換を申し込んだ。レコード、パイナップルソーダ、鉄製の棒、懐中電灯――その他諸々の品物すべてを村長はたったひとつのものと交換しようとした。それは手乗りの雄のライオンだった。
ライオンは彼の掌で喉を鳴らしながらうつ伏せで笑っていた。ライオンに限らずとも獣の笑い顔は滑稽なもので、周りに恐怖心を植え付けることは決してない。クリーム色の毛並みを撫でると雲のような本物のクリームをそこからごく少量こし取ることができ、その比類なき甘さはフランスの菓子メーカー『ル・レコル・ブランシュ』の創業者アナトール・レグマンにも衝撃を与えたとされている。村長は交渉を渋る行商人に、今ならそのクリームをワインボトル一杯に詰め込んだものをおまけに付けてやろうと言った。頑なだった商人もそのクリームを乗せたクッキーを食べた瞬間目の色を変えて「俺は歩いて帰るからこの馬車もくれてやる」と叫んで本当に歩いて帰っていった。物々交換で得た品物は膨大なものだった。その中には作家活動停止直後に出たモーム豪華版全集初版や真鍮のミニカー、ヴィオラや干し芋や栗さえあった。煙草も麻薬も山積みだったが、村人はそれらを使用することはあっても決して堕落することはなかった。牛たちがその十二倍強の大きさのニシキヘビや蟻にさらわれることもなく、すべては平和に流れるかのように見えた。
しかし地中深く潜っていたであろう巨大なダイアモンド――シエラレオネの主要輸出物である――が氷山のように鋭く、ときに起伏に富みながら地表へと表出してきて、次いでその二か月後にそれらが宙に浮かびだした頃になって村人たちは異変が起きた起きたと騒ぎ始めた。ダイアモンドの数は百や二百に留まるものではなく、小さいものでも大人ふたりではかかえられないほど、大きいものでは二階建ての家をしのぐ半径だった。原石であるには違いないのだが、時々いかにも途中で加工を放棄されたような断面を持つものもあった。爆発してしまうのではないかと思うほど気泡を内に秘めた面々だった。
村長はすべて私の責任だと泣いた。あの手乗りライオンは私の家で七代に渡って受け継がれてきたもので――しかも獣は血筋を継いできたものではなく、正真正銘同じ一匹がずっと生きながらえてきたものだという――それを手放したばっかりにこうなってしまったのだと嘆いた。彼は村人が集まっている前で商人から勝ち取った大量のLSDを一度に服用し、射精しきれない性器を破裂させ死んだ。ムシャンガは必至で性器をパッチワークで縫い合わせようとして、あと数センチというところまで漕ぎつけたが駄目だった。ムシャンガは自分を責めた。坂上は彼女の肩を抱き、君は最後まで諦めなかったとその努力を誉めたたえた。ムシャンガは彼の鎖骨を睫毛で濡らしながら、きっと村長は串に刺さった指輪の夢を見ながら死んだだろうと呟いた。坂上はきっとそれを舐めたら苺味だろうと返し、彼女の髪を撫でた――ふたりは心の奥底で、因果応報だと請け合っていたのだ。
作品名:嵐の環・台風の虹彩(酒井貴裕) 作家名:早稲田文芸会