薊色花伝
「翠仙ちゃん」
目を開けると軒先で横になっていた。見上げた視界の端には常葉の顔。その背中越しに見える、オレンジに色付いた中庭。ふっと和らいだ瞳に、自分がどうやら気を失っていたらしいということを察する。
「良かった、気がついたね」
額の上に乗っていた冷たいタオルを除けて、身体を起こす。眩暈も頭痛もなさそう。
どうやら華崎邸まで運ばれてきたらしい。何があったのかが酷くぼんやりしている。
『もしかして、あなたが助けてくれたの?』どうしたのか、とっさにそう尋ねそうになっている自分に驚く。
そうだ、吹き出した黒い霧のようなものに包まれて……
「あたし……」
「石段から落ちたんだよ」
あまりに明瞭な声に思考が停止する。目を遣れば真剣な常葉の表情。
「石段を降りていて、崩れに足を取られたんだ。僕が腕を引いたから下までの転落は免れたけれど、転倒のショックで気を失ってしまったみたいで」
そんな筈はない、思うのに言い返すことが出来ない。状況説明というより、まるで言い聞かせているような丁重さ。まさか、あれが夢だった?この人の目にはそう映っていたのだろうか。だけど、社から石段へ行くまでの過程が思い出せない。
思い出せるのは――
闇。
それに、あの青色。
あたしの言葉に反応して、闇を切裂いた炎。
あの色を、多分あたしは知っている。
暫くして背筋に冷たいものが落ちてくる。
目が覚めて分かる。あれは、命の終わりだった。もう少し遅ければ確実に無になっていた。それに気が付いて、カタカタと歯が鳴る。
夢だとは思えない、あの感覚。刻限を目の当たりにした自覚と、握りしめていた手の爪痕。蝕んでくる底知れぬ恐怖。
それを阻んでくれたのは、傍らに居た助手の掌だった。
「もう大丈夫だよ」
ふわ、と頭に置かれた手から伝わる穏やかさ。それこそ子どもとしてあやされている感じがしたけれど、なんだか安心してしまって逃げることができなかった。
今は、このままでいいかもしれない。彼とあたしの考えているものが食い違っていても、このやさしさだけは本物だ。
『ありがとう』。
口にしようとしたところで、庇を越えて伊瀬さんが顔を出した。
「常葉さん」
額にあてがわれていた掌が遠ざかる。彼の視界からも外れて、あたしはふっと息をついた。
「どうでしたか」
「やはり、ありませんでした。昼間に消えるのはこれが初めてです」
その遣り取りに、彼らが何を話しているのか、その意味を瞬時に読み取った。
なくなった?
もしかして。
常葉はゆっくりと頷いた。瞳が琥珀色に輝く。
「刀が無くなった。ちょうど翠仙ちゃんが足を滑らせた頃にね」
伊瀬さんの不安気な表情が更に色濃くなる。当たり前だ、『こんなこと』が起こらなくなるように依頼したのに、まさかその合間に刀が消えてしまうなんて。
慌てて立ち上がろうとしてたたらを踏む。さすがに起き抜けの頭には厳しい。それを視線で窘められて。
「大丈夫です。行き先は分かっています」
言葉には、やけに確信めいたものがあった。目を瞬いたのは何も伊瀬さんだけじゃない。自信たっぷりに――いや、それを事実と知っているかのように、常葉は言うのだ。心配はない、と。
不思議な事に、今回ばかりはなんとなくあたしも予想が出来た。どうしてだろう?彼の仕事振りに感化されでもしたのだろうか。
あたしはちらりと裏山に目を向ける。その上にあるはずの鳥居を探して。
刀は、きっとあそこにいる。
「しかし、それを確かめるには少し条件が足りません。今日は一度引き上げさせていただいて、明日また日中窺います。宜しいですか」
「そうですね。では、鏡は明日までに探しておきます」
知らずにぼんやりしていたところに、彼らの会話が耳に入って我に返る。
「帰るの?」
「日も落ちてきたし、一旦仕切り直しだ。きみも少し休むべきだね」
あたしは大丈夫、と胸を張ったものの、足元はふらふらと覚束無い。これじゃ全く様になっていない。
おまけに、さっきから、妙に眠くて。
座っていると飲み込まれそうだから立ち上がりたかったのに、本当にどうしようもないわ。
それを振り払おうと懸命に頭を振る。欠伸を噛み殺せば、常葉が目元を綻ばせる。
「色々あって疲れただろう。無理はしないほうがいい。それにどうせ、このまま残っても社は開かないよ」
その日は結局黄昏に見送られて、薊堂に引き返すことになった。