薊色花伝
――薊堂、これで本当になくなっちゃうな。
一番に思いついたのが、よりにもよってあの場所のことだった。
祖父のようになりたくて、父親から離れたくて始めたアルバイト。
受け持つのがどんな仕事だとしても、例えば、今回のような得体の知れないものと対峙する仕事だとしても、此処から出て行こうという気持ちはさっぱり浮かんでこない。
まだ居付いてたった五日だけど、まるで長いこと住んでいる家のように落ち着ける場所だった。
あれがなくなるのは嫌だなぁ。それとも、あたしがいなくなってもあの人が続けてくれるだろうか。
あの人が、唯一残った社員が。常葉が。
子供をあやすような微笑み。口にしなくても抱えている誇り。
きっと自信と矜持を持つ、あの人。
トキワ。
そう言葉にした途端、異変が起きた。
ふわ。
僅かに起こる風。ほんの少し薄れた無限の闇。
「トキワ……?」
ふわり。
今度は確実に声になった。見下ろせば闇に慣れた様にして自分の掌が見える。
さっきまで、あんなに昏かったのに。
振り向くと宙に小さな裂け目が生まれていた。裂け目だと分かったのは、その向こうで何かが揺れている所為だ。
ゆらゆらと、目に焼きつく色。
光だ。ヒビの隙間から青い光が射している。冴えた色なのに、とてもあたたかい。
それがどうして生まれたものなのか分からない。けれど、引き金になったのだと咄嗟に思った。
言葉なのか、それとも、脳裏に過ぎった彼の微笑みか。
あたしは分からないまま、もう一度だけその名を呼んだ。
「常葉」