アダムとトヨタ
積み木遊び(1)
一週間前、何度かセックスした女が死んだと聞いた。
酔っぱらい運転のトラックに引かれて、子持ちにしては可愛らしかった顔や豊満な身体がぺちゃんこになっていたという。
それを聞いた時、僕は彼女のやわらかい乳房の感触をまず思い出した。まるでスポンジのように指先が沈みこむ感触が好きだった。その柔らかさを枕にして眠るのがマイブームになっていた僕は、あの乳に二度と触れないのは残念だと酷く落胆した。それから、女の子供はどうなるんだろうとふと考えた。
キャバクラ嬢をやっていた女は、僕が働くバーの上客だった。女曰く“息子に似ている”僕を誘っては、頭のネジが緩んでいるのか、その息子に似ている僕をいけしゃあしゃあとホテルに連れ込む。セックスの後は決まって、つれない男に捨てられた話を愚痴愚痴と繰り返して、それから自分の息子の可愛さを延々と自慢し続ける。
豊満な胸に僕の頭を乗せて、耳に吹き込むように、今日は洗濯物を畳むのを手伝ってくれただとか、卵が割れるようになっただとか、そういう下らない話をするのだ。僕は、心地良い脱力感と眠気につかったまま、その話を夢うつつに聞く。何故自分の子供でもない子供の話を聞かなくてはいけないのだという不満は、微睡みに紛れて、曖昧に四散した。
結局一年間近く、僕は女の話を聞き続けた。たぶん、その顔も知らない子供について、彼女の次に知っていたのは僕だ。豊島園でアイスクリームを落として涙ぐんだのも知ってる。幼稚園で作った写真立てを、女の誕生日にプレゼントしたのも知っている。女の説明は事細かで、まるで僕の身体に成長記録を書き込むかのようだった。子供が生まれてからの四年間が刻み込まれるのを感じて、僕は見ず知らずの子供に微かに愛着を感じ始めている自分を思った。
自分自身の異常さに気付いたのは、女が『明日は子供の誕生日なの』と嬉しそうに言った日だ。次の日、気付いたら僕の腕には小さな三輪車が抱えられていた。結局女のアパートの前でその異様さに気付いて、僕は三輪車片手に逃げかえった。見た事もない子供に、何故プレゼントを買ってしまったのか、自分自身理解できなかった。
結局、その三輪車は捨てることも出来ずに、僕のアパートの前に置いてきぼりにされた。ハンドルに水色のリボンがついた三輪車を眺めると、僕は苦々しいような甘ったるいような相反する想いに支配される。まるで自分の子供を放置しているような罪悪感と、僕には子供がいるんだという半ば妄執じみた愛情が渦を巻いて、僕の心臓をぎゅうと押し潰す。
今思うと、きっとその頃の僕はさびしくて堪らなかったんだろう。僕は、そのとき家族が欲しいと思った。だけど、僕は知ってる。何百人もの相手とセックスして気付いたこと。僕は子供を作ることが出来ない。病院で検査して、それが告げられた時は、ゴム代がうくな、ぐらいとしか思わなかった。だけど、女が余りにも幸せそうに子供のことを語るから、僕は羨ましくなってしまった。僕は、羨むことを知ってしまった。