絶対不足浪漫譚
七、僕たちには奇跡が足りない
心の寒さに打ちひしがれた僕が向かったのは、誰もいないはずの冬の海岸だった。冷たい海に身を浸せば、自分の中にかつてあった熱い想いを思い出せるかもしれない。もし思い出せなければ、そのまま海の中に溶けてしまうのも一興だろう。もしも、海苔になれたなら、大好きなラーメンに添えてもらえるかもしれないし……。
しかし、無人の筈の真冬の海岸に辿り着くと巨大な文字(大きすぎて読めないけれど、確かに文字のようだ)と、それを書いたであろう全身砂まみれの青年がいた。
「君は、一体何をしたのか、聞いてもいいかい?」
僕は好奇心で青年に問いかけた。歳はそう変わらないだろう。霜山と名乗った青年は寝疲れたような面持ちでいたが、僕の問いには苦笑を浮かべて答えた。
「それが、笑ってくださいよ兄さん。何がきっかけかはわからないんですが、ラブレターを海岸に書くことになったんです。たぶん、罰ゲームで。でも、俺の気持ちは冗談なんかじゃなかった! そして、睡眠不足と多量のお酒のせいで、僕はその気持ちの大きさをラブレターの大きさで示そうとしたんだ! 我ながらとんでもない行動力ですが、困ったことに彼女に読んでもらうには空からでも読まない限り無理なんですよ!」
霜山が困ったように肩を竦めてみせたので、僕は心の底から笑うことが出来た。彼になら僕の手痛い失恋話――裏切られて騙されて振られた話――を話してもいいかもしれない。
僕たちは語り合った。僕はかつての恋を語り、霜山は彼が砂浜に描いた壮大なラブレターの内容と、彼の恋する相手について語った。僕は恋から醒めた口調で、後悔と悲しみと寂しさを。青年は恋に酔いしれる者のその口調で、情熱を込めて彼女の素晴らしさを語った。その言葉の数々は、少なくとも僕の中の冷え切った何かをそっと暖めるものだった。
僕たちは古くからの友人同士のように気兼ねなく語り合った。僕は海に入るのは夏に限るという常識を取り戻したし、霜山の方でも改めて便箋にラブレターを書く(ただし、想いの丈を表現するには三桁の大台に乗るだけの便箋が必要だと彼は大真面目な顔で主張してやまなかった)ことを決意した。
「たとえば、今この場に彼女が現れたら俺は思いの丈を歌にして伝えられると思うんです! あるいはミュージカル風に歌い上げることも出来そうです! 今の俺はそれくらいに彼女に参ってしまっているんですよ! 自分ではどうしようもないんです!」
「しょうがない、それが恋ってやつの成せる業だろう! 僕だって今この瞬間、空から女の子が降ってきて僕に優しく微笑んでくれたなら、間違いなく天使だとでも勘違いして愛を告白することだろう!」
「違いない! 兄さんに必要なのは心の傷を癒してくれる、天使のような女性ですよ!」
「しかし、そんなことが起こせるのは魔法遣いくらいなものだよな……」
「いやいや、世の中にはこういう時の為に奇跡ってやつがあるんですよ! そう、俺が彼女に出会ったことのように、世界で最高の奇跡が!」
「そうだ、僕にもきっと奇跡が起こる!」
「俺と兄さんの友情と、これから起きる奇跡に」
「「乾杯!」」――そして、文字通り奇跡が起きた。
二人が掲げた缶ビールが音を立てたちょうどその時、空から女性を抱えた人間が降りて来た。まるで空を歩くかのような足取りで、その人は音も無く軽やかに砂浜に降り立つと、目を回しているらしい抱えていた紅をそっと砂浜に立たせて活をいれた。その抱えられていた紅の顔を見るなり霜山があっ、と声を洩らした。その目を見れば、どうやら彼女が霜山にとっての奇跡のお相手らしい。僕が霜山に問い掛けるまでもなく、彼は抱えられていた紅に駆け寄るが早いか、そのまま告白してしまった。急な展開に目を丸くしていた女性もまた、言葉少なに彼への好意を伝えた。二人はその場で手に手を取り合って踊り出したので、すでに周りの出来事はもう何一つ目にも耳にも入らないようだった。
そして、僕はそのニ人の様子を見守っていた空を歩く人に目をやった。すると、驚いたことに女性を一人軽々と抱えて空を降りて来た人は細身の美しい女性だった。その人は踊り廻る二人を満足気に見つめ、ふいに僕の方に顔を向けると優しく微笑んだ。
奇跡だ――この瞬間、僕の中の凍っていた感情が一瞬で沸騰した。
僕が微笑みに見惚れている間に、霜山は彼女へ捧げるラブソングを熱唱し始めていたようだったが、もうその歌詞も旋律も僕の耳には入って来ていなかった。僕は空から現れた天使に、迷わずに声をかける。
「あなたは、魔法遣いですか? もしそうなら、あなたには僕に掛けた魔法を解いてもらうか、責任を取ってもらわないとならない」
彼女は驚いたように僕の目を見つめる。嘘を見破る、鋭い目だ。でも、自分の気持ちに嘘や偽りは微塵も無かった。僕は彼女に魔法を掛けられてしまったのだ。彼女にしか解くことの出来ない魔法を。
「私は、あなたに魔法をかけてはいません。そもそも人間に対して使える魔法は、修行中なのです」
彼女は戸惑いながらもはっきりとそう言った。もちろん、彼女は魔法を掛けていない。僕が勝手に彼女に魅せられたのだ。
「いえ、僕が勝手にあなたの魅力にどうしようもなく惹かれてしまったのです! だから、僕はあなたともっと話したいし、できればずっとお付き合いしていきたいと思っています。もちろん、友だちとしての付き合いからでも、徐々にお互いを知り合っていけたらと思ってます! よろしくお願いします!」
僕は必死になって彼女に思いの丈を告げた。失うものなんて何一つ無いんだ! 数瞬の間が合って、彼女のたどたどしい戸惑った声が返ってくる。
「その魔法については、私も勉強中です。……その、お友だちからでよろしければ、喜んで……その、お付き合い、させてください。その……まずは、どうしたらいいのでしょう?」
僕は天にも昇る気持ちでその返答を聞いた。もちろん、最初に行く場所は決めていた。自分でもそれとわかる最高の笑顔で彼女を誘った。
「僕が大好きな、すごくおいしいラーメンがあるんですが、一緒に行きませんか?」