二番ホームから電車が発車いたします(かわの)
夢の続きを見ようとしていたその時隣にいた少女が泣き始めた。起き上がって見ると大の字で寝転がったまま彼女は目から大粒の涙を流して嗚咽を漏らしていた。腹が減ったのか? どこか痛いのか? 悲しいことでも思い出したのか? と千曲が何を尋ねても彼女は首を振って「ふぐぅううぅう、はぅうぅっぅう」と鼻をすするだけだった。しばらく彼は少女の頭を撫でていたが泣き止む気配はなかった。少女は体中の水分を使い尽くすほどに泣いていた。どうしたものかと饗庭に助けを求めようと思ったが一コール目で切った。時計を見て十一時十分であることを確認すると千曲は少女の手を引いて家を飛び出した。深夜の空気は人を拒絶していてろくに身支度をしていなかった彼の肌は粟立っていた。そんな見えない向かい風を受けながら彼は走った。少女の手は一歩進むごとに熱を失っていきやがてプラスチックのようになった。振り返れば少女が瞳を潤ませながらもしっかりと千曲の目を覗き込みすんすんと鼻をすするのに合わせて頷いていた。やがて最寄りの駅に着いた。会社から帰還して来たらしいスーツ姿の男や化粧の崩れた若い女が改札を通り抜けていった。千曲と少女はそれに逆行し改札を抜けた。もちろん切符を買っていないのでゲートが閉まったが彼は構わず蹴り倒して行った。ちょっとお客さん何やってるんですかと声を掛けてきた駅員には財布を投げ付け鳩尾に肘を叩き込んだ。当たり所が良かったらしく駅員は後ろに倒れた。そんな騒ぎを背後に彼等はホームへ向かった。一番ホームに上がる階段の前で彼は少女の手を離した。「おい、お前、お前はここを登れ」。少女は首を振った。涙の跡は冷気で白く固まり少女の白い肌により濃い白い川が何本も流れていた。「つべこべ言わずに登って待ってろ。いいな?」少女は目を伏せ少し考えた後手摺りを伝って、というよりしがみつくようにしてゆっくりと階段を登って行った。見届けてから千曲も二番ホームに向かった。ホームから下ってきたサラリーマンが彼の血相を見て驚いたように道を空けた。登り切ると反対側には少女が腹を抱えてうずくまっていた。「おいぃ!」と呼ぶが少女は気が付かないようだった。名前を呼ぼうとしてまだきちんと決めていなかったことを思い出した。仕方がないので適当に呼ぶことにした。「ちるか!」咄嗟に出たのは自分の名前だった。少女は枯れかけたひまわりのような体勢で視線だけこちらに向けたようだった。長い黒髪が風で少女の顔に張り付き表情が見えなかった。「なあおい! 見てろよ、ちゃあんと見てろよぉ、なぁ、連れて行ってもらわなくたっていいよ、なあ、どこにだって行けるんだよ、見ておけよ、そこで見ていてくれよ、絶対に目を離すなよ、いいなぁ!」てれれれれん、てれれれれん、と通過電車の接近を表す電子音が鳴った。危ないですから、黄色い線の内側まで、お下がりください。どうでも良さそうに、そんな事は思っていなさそうに女の声はそう呼び掛ける。どこか遠くの方で気のせいかと思うほど小さく線路が軋んでいる。
白い顔を更に白くした少女はわずかに唇を開き何事か言葉を発したようだったがこの距離ではそれは届かなかった。口の形から見て「あぁ」だか「うぅ」だかそんな感じだったように見えた。その代わり彼の耳には線路が重みに悲鳴を上げる音が聞こえた。衝突された風も呻くように声を上げていた。千曲は体育が苦手だった。水泳はいつも見学で、ビート板を叩き折ってはプールに投げ込んでいた。いつも通信簿は三で、それ以上になることはなかった。ああそうだ、サッカー選手、それもいいかも知れないな、千曲はそう思って三メートルほど助走を付けて白線の内側で踏み切り跳躍した。左足が少女のいるホームにつきそうになったその時、名前を呼ばれたような気がして、彼は後ろを振り返ったが電車のライトが眩しくて何も見えはしなかった。ふと思った。もし叶うことなら、太陽の塔の上から試合を見たかったな、と、それだけ思った。
作品名:二番ホームから電車が発車いたします(かわの) 作家名:早稲田文芸会