ストイコビッチのキックフェイント(笠井りょう)
もちろん羊水のなかで泣いたりしたら死んでしまう。「やっちゃん」と爺ちゃんは戦時中同じ訓練所でしばらく一緒に過ごした旧い友だちで、母さんたちの結婚式にも呼ばれてたらしいから、もしかしたら私より先に「やっちゃん」の超絶な言語操作に絶望して泣いた兄弟がいたのかもしれない。母さんの胎内はすべての生命が生まれては死に死んでは生まれる底なしの暗い海なんかじゃなくて、どこにでもいそうな人妻Aの使い古した生殖機械に過ぎないのでもない、母さんの胎内としか言いようがない母さんの胎内で、そんな母さんの胎内には世界中からひっきりなしに言葉が降り注ぐ。なんて。世界というか世間だし、母さんは出不精だから、この言い方は確かじゃない。「やっちゃん」ならきっとこう言うに違いない。
作品名:ストイコビッチのキックフェイント(笠井りょう) 作家名:早稲田文芸会