梅の咲くころ
しばらくすると、ぼつぼつと彼らが姿を現しはじめた。それでも、やはりまだ警戒心を抱いているように見える。姿を表しても、すぐにまた姿を消してしまうのだ。
その日も、あっという間に夕刻となり、その時はじめて少女と二、三の言葉を交わし別れを告げた。
次の日も、また次の日も、私は梅園で琴を奏で、少女はそれに合わせて舞った。
そのようなことを続けているうちに、やがて彼らの数も増え、いつかは歌え踊れの大宴会となっていた。
この景色、過去にも見たことがある。そうだ、母が生きていた頃と同じだ。毎年、彼らはこうやって楽しそうに騒ぎ立てていた。
老若男女、彼らは皆一様に楽しそうな顔をしている。私の演奏も勢み弾む。
その日の演奏が終わると、少女だけでなく、ほかの者からも声を掛けられるようになった。今日の演奏は良かっただとか、私の母を引き合いに出してまだまだだとか。
楽しい日々だった。
しかし、別れはやって来る。
毎年そうだったのだが、梅の散る時期、彼らは一人、また一人と姿を見せなくなる。
そして、終いには少女だけになってしまった。
他の者が姿を見せなくなってしばらく経っても、彼女は毎日姿を見せたのだ。
それでもやはり、そういう定めなのだろう。
少女の舞に衰えが見えはじめ、その日の演奏が終わったあと、少女は哀しそうな顔をして、私に言ったのだ。
「もう明日は来られない。また来年……また来年必ず会おうぞ」
「また来年……必ず」
手を伸ばした私の指先を軽く触れ、少女は瞬く間に儚く消えた。それはまるで花びらが舞い散るように。
私は次の日も梅園へ足を運んだが、別れの言葉は嘘ではなく、少女は本当に姿を見せなかった。
哀しく切なくもあったが、また来年と思えば心弾む。それまでに琴の腕を上げて、少女を驚かせようと私はほくそ笑んだ。
しかし、運命とは残酷ものだ。私の願いを踏みにじり、せせら笑うのだ。
その年の夏、国で大きな紛争が起きた。それはやがて国を二分三分する戦乱となり、当初無関係だと思っていた、山奥で忘れられた家系の者である私にまで火の粉が及んだ。
私は出兵することになり、さらには僅かばかりの残されていた、我が家の家宝や財産までもが没収される形となった。
さすがにこんな山奥の草木もろくに育たぬ場所にある屋敷など、誰も欲しいとは思わず取られることはなかったが、私はあの梅園のことが気が気でなかった。
戦乱は長きに渡り、幾度かの厳しい冬を越えてもなお、国は治まることを知らなかった。
ある年の夏は暑さで作物もできず大飢饉が襲い、さらに冬は大寒波によって積雪や地吹雪に見舞われた。戦乱で厳しくなる生活に追い打ちを掛けたそれらの自然の猛威により、ついに国は鎮まりを見せた。
長い戦いで多くの傷を負いながらも、私は生き残った。それはひとえに、少女との約束があったからだ。来年また会おうと約束したのに、私は結果的にそれを裏切ることになってしまった。私はずっと悔やみ続けていたのだ。
そして、ようやく争い事から解放され、我が家へと帰ってくることができた。
偶然にも季節は梅香る時期だった。
私は一も二も無く、琴を持って梅園へと駆けつけた。
そこで私は愕然とした。
あの美しかった梅園が見る影もなく廃れ失われていたのだ。
元々この場所は草木が育つのも難しい場所。その場所に先祖は水を引き、土を耕し、あの梅園を完成させたのだ。それが私のいない間に、このような姿に。
私は慟哭した。
それほどまでに嘆いたのは、生まれてはじめてだっただろう。
敵に武器を突きつけられ、もう駄目だと思ったときですら、これほどまでに声をあげて泣きはしなかった。
地面に手を付き、瞳から零れた涙が土に落ちる。まるでそれは花が散るように。それがまた悲しく、私はさらに涙を流した。
どれほど嘆いていたのか、声はすでに嗄れてしまったが、涙は底知れず涸れることなくまだ流れ続ける。おそらくこの涙は涸れることはないのだろう、私が死ぬまでは。
私はその気配にすら気づいていなかった。
「待っておったぞ、早くそちの演奏を聴かせてたもれ」
驚いた。驚かずにはいられなかった。私が顔を上げると、そこには少女が私に手を伸ばして立っていたのだ。
私は少女の手を取り、そのままその可憐な体を抱きしめた。
「もう会えないと思っていた」
「妾は信じておったぞ、また会えると」
私の瞳からはまた涙が溢れ出ていた。今度は嬉し涙だ。あれほどまでに悲痛な涙は流したことがなかったが、これほどまでに嬉しい涙も流したことがない。
しかし、この荒れ果てた梅園を見ると、私の心に影が差す。
「すまなかった。梅園をこのような姿にしてしまったのは私のせいだ」
「誰もそちを責めたりはせぬ。ほれ、見てみい――妾たちはそちが思う以上に強く生きておる」
少女の指差した先には、梅の枝先で小さく膨らむつぼみ。
「そちの演奏を待っておるぞ、皆」
少女の言葉に促され、私は琴を弾きはじめた。
奏でに合わせて少女が舞い踊る。力強く、そこには生命の息吹を感じた。私も負けてはいられない。
風が梅香を運ぶ。
次々とつぼみが花開き、繚乱と咲き誇る梅たち。
やがて私たちの回りに彼らが姿を見せはじめたではないか。
夢のような宴がはじまった。
私は疲れを微塵も感じず琴を演奏し続けた。
少女もまた、舞い続けた。
しかし、私はある異変に気づきはじめた。
彼らはひとり、またひとりと姿を消しはじめたのだ。
やがて、残ったの少女ひとりだった。
いつまでも少女は舞い続けた。足下が覚束なくなりながらも舞い続ける少女の姿を見て、私も演奏をやめるわけにはいかなかった。
しかし、ついに少女は足を取られて地面に倒れてしまったのだ。
私は手を止め少女に駆け寄り抱きかかえた。
「大丈夫か?」
「……今の曲、上々じゃ」
「そんなことり大丈夫なのか?」
「曲の名……なんと申す?」
「名前はない。私の創った曲だ、自然と生まれていた」
私の手の中で少女が儚く消えようとしていた。
少女はまるで舞い散る花びらのように、私の腕の間を擦り抜け消えていく。
「待ってくれ、行かないでくれ!」
「……楽し……った……ぞ……」
「そんな、まだ名前すら聞いていなかった言うのに!」
梅が散る。
最後に残されていた梅の花びらが、枝から落ちて風に吹かれてどこかに消えた。
――うめか。
そんな声が風に乗って微かに聞こえたような気がした。
誰の声だったのか、それとも気のせいだったのか、それは定かではないが、私は少女と共に奏でた最後の曲の名を――うめか、と名付けた。
作品名:梅の咲くころ 作家名:秋月あきら(秋月瑛)