時の部屋
扉の左上。本来ならネームプレートが入っているはずのスペースには何もなく、そこで私は唐突にある光景を思い出した。何年か前、私が高校生だったころ、この部屋に住んでいた学生が引っ越したのである。礼儀正しく菓子折り持ってあいさつに来たのでよく覚えている。もっといいマンションに引っ越すんですってうらやましいわねぇと本当にうらやましそうに言っていた母の顔まで浮かんできた。そして私の記憶が正しければ、三〇一号室はあの時から誰も入居していないはずであった。
つまり、空き部屋。
急にどうでもよくなった。
鍵は管理人さんに届ければいい。なにしろここの管理人さんは「閉じ込められて怖いから」という理由で、移動するときは大枚はたいて設置したエレベーターではなくわざわざ階段を使う。そして暇さえあれば口笛で拍子の抜けたメロディーの作曲に夢中になる、という変人であった。鍵を落としたのもたぶんあの人だろう。しかし、このまま引き下がるのもなんだかしゃくである。二日続きの雨のせいか私はなんとなく憂鬱で、あるいは外界から私を覆い隠すその雨が原因なのかも知れなかった。出来心、というやつだ。どうせ空室なのだし、さほど悪いことでもないだろう。ちょっと見てすぐ戻ればいい。きっと部屋の中は思った以上に殺風景で、なんだこんなものかと思って、何事もなかったかのように帰宅すればいいのだ。自分の家は隣の隣だ。簡単なことだ。
私は手の中の鍵を、目の前の扉に差し込んだ。鍵穴はすんなり鍵を受け入れる。奥まで届いた感触。そのまま右に回すと、確かな手ごたえと扉の内部で何かが反転するような感触と共に、がちゃんと音がした。
たぶん、開いた。
つばを飲み込む。
鍵を抜き、左手に移した。空いた右手でドアノブを握る。左に回すと、何の抵抗もなく回りきった。腕を引く。やはりそのままドアは開く。開いたついに開いたというか開けてしまった。これもしかして住居侵入とかじゃないだろうかもし今管理人さんに見つかったらどうしようどうしようえぇい入ってしまえ。
入った。
思ったとおり、殺風景だった。家具も何もない上に三〇一号室はワンルームなので、玄関からすぐリビングが見える。フローリング張りの床、白い壁、正面に備え付けられた窓。部屋として最低限の機能だけを備えたような空間。