時の部屋
雨を美しいと思えるようなった。空から地上へ間断なく渡らせた銀糸のような雨を見て、私は一度、感謝も謝罪も悲しみも怒りも喜びも夢も希望も諦めも、その全てを内包した何かがやるかたなく胸に満ちるのを感じた。それはきっと後悔ではない。郷愁でもない。それはきっとあの部屋が、今でもどこかで私達の帰りを待っているからなのだと、そう私は思っている。
◇
その日も気持ちよく晴れ渡った。
私は大学キャンパスの広場を、演劇部の部室に向かって歩いていた。
「あーすかっ」
聞き慣れた声と同時に、背中に柔らかい何かがぶつかってきた。もう振り返らなくてもわかる。
「瑠衣っ、あんた今日二限あるんじゃなかったの?」
後ろから絡みついてくる瑠衣をほどきながら、私は訊いた。
瑠衣はえへへーと笑い、
「さぼっちった」
私も笑った。
「単位取れなくても知らないからね」
瑠衣は「いいもーん」と投げやりに言い放ち、そして唐突にあ、と声を上げた。
「飛行機雲」
瑠衣は手をかざし、目を細めて空を見上げている。私も彼女と同じポーズで、同じ方向を向いた。
ただいたずらに青い、吸い込まれそうなほどに澄み切った夏の空。その遥か上空。
後ろに細く雲を残しながら、飛んでいく飛行機を見た。
その飛行機は地上の私たちから見れば、とても頼りなく小さかった。広大無辺な蒼穹に迷いこんだ、一羽の小鳥のようにも見えた。
それでもまっすぐに、止まることなく飛行機は飛んでいた。白い足跡を残しながら、果てしない青をかき分けて、目的地に向かって。
しばらく私たちはその飛行機を眺めていたが、やがて飛行機は、空の青に溶けるように見えなくなった。
それでも、飛行機が残した雲の道は残っていた。
ただ一筋に、真っ青な荒野を切り裂いて、いつまでも白々とその証を示していた。
(了)
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